就職指導室の徳永です。私が住んでいる、さいたま市は平成15年に13番目の政令指定都市になりました。
そのとき一大論争が『住民レベル』で起こりました。区のネーミングに纏わるバトルでした。荒川の流域が桜区と命名されることに反論の声を上げたのは見沼区になる予定の住民でした。見沼という区名は「見沼たんぼ」に由来します。江戸時代に、八代将軍吉宗の命により大灌漑工事が行われました。その通船掘は高低差のある水路に船を通すシステムで、スエズ運河の百年前に実用化されたもの。日本の技術の高さを物語っています。世界に誇るべき見沼たんぼなのですが、住民の反論はこうでした。見沼区という命名は「たんぼ」を連想させるのでダサいイメージ、桜区というなら、こちらも桜の名所なので桜区という名前はむしろこちらの方が妥当だ。あくまで住民レベルでしたが、この論争は大きくならず、一気に終息してしまいました。桜区の由来は桜の木ではなかったからなのです。区名の由来はサクラソウです。相手が草のサクラソウなら桜の木を持ち出しても論争になりません。サクラソウはあまり馴染みのない草花ですが、埼玉県の花でもあり大阪府の花でもあります。園芸店ではプリムラの名称で呼ばれていますが、それはセイヨウサクラソウで、二ホンサクラソウが売られていることはほとんどありません。
実は、東京から埼玉の荒川流域はサクラソウの自生地で江戸時代はサクラソウの一大景勝地でした。徳川家康が鷹狩りに来て、サクラソウの美しさに魅せられ江戸城に持ち帰ったという逸話もあります。家康が鷹狩りに来た場所が、現在の桜区の田島が原でした。江戸庶民の大きな楽しみとなっていたサクラソウですが、明治、大正と農地化のための開墾でその姿を消してゆきます。さらに戦争が暗い影を落とします。戦局が劣勢になったころ、日本の軍隊が来て荒川流域を開墾、ジャガイモ畑にします。サクラソウが復活したのは昭和27年のことでした。田島が原はサクラソウの自生地として国の天然記念物に指定されました。現在では年に10万人の人が訪れる景勝地となりました。広さは4ヘクタール余り、これだけ広い範囲にサクラソウが自生しているところは他にないそうです。小林一茶の句が残っています。「我が国は草も桜を咲きにけり」。草も桜が咲く春、これからいっぱい花が咲きます。そして、わが校にも就職内定の花がいっぱい咲きますようにと願います。