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長野郷土史研究会会誌『長野』259号に「妻女山の真実」掲載【妻女山里山通信】

2008-06-06 | 歴史・地理・雑学
 掲載された記事は、「妻女山の真実」-妻女山は往古赤坂山であった。本当の妻女山は斎場山である。-という約8000字(原稿用紙20枚)+地図2点の文章です。妻女山について研究した私の特集ページ「妻女山の位置と名称について」(現在は限定公開)をご覧いただいた方には、既にお馴染みだと思いますが、それらを要約してまとめたものです。

 制限された文章量のため、書ききれなかったことも少なくありません。古地図や古い航空写真、字図や細かな地名などを紹介できなかったことも心残りです。また、校了後に見つけた絵図や史料から判明した新たな妻女山の真実というものもあります。特に、妻女山という名称が、いつ誰の手によって創作され、斎場山にとって代わったのかということが、かなりはっきりと見えてきました。これについては、いつか然るべきメディアで発表できればと考えています。

 また、『信濃史料叢書』第四巻 眞武内傳附録(一)川中島合戦謙信妻女山備立覺の「九月九日の夜、信玄公の先鋒潜に西條山の西山陰に陣す」という記述や、その他の文献から、本来の西条山は、狼煙山のことだと記してきましたが、今回それとは別に、西条村最南端に位置する高遠山(1221m)が、西条山であるという絵地図を発見しました。岩野村の「【妻女山】高及び周囲未だ実測を経ず。村の南の方にあり。嶺上より界し、東は清野村に属し、西南は土口村に属し、北は本村に属す。山脈、南は西條山に連り、西は生萱村の山に接す。」という記述からも、高遠山がどうも西条山であった可能性が高いことが分かってきました。

 「西條山の西山陰」が「高遠山の西山陰」とすると、ちょっと方向が違うのですが、山頂ではなく山塊とすれば、西山陰は稲葉地区辺りとなり、唐木堂から坂城の日名へ抜ける峠道とも合致するわけです。西条小学校の校章は、中央に高遠山、左に狼煙山、右に象山と西条村の三つの青垣山が描かれています。やはり、西条山は、高遠山というのが正しいのかもしれません。西条山については、ほとんど文献が無く、これについては、今後の研究課題だと思っています。このブログをご覧になっている方で、西条山のことをご存じの方がおられましたら、書き込みまたはメールをお待ちしています。どんな情報でも結構です。

 ちなみに、「妻女山の位置と名称について」の未公開の部分は、妻女山の記述の歴史的変遷(史料・村誌等)。妻女山の名称の歴史的変化と妻女山の文化史年表(これはすごいです)。妻女山の場所と名称の混乱はなぜ起きたか詳細記事。妻女山詳細字図・地名図(古道)。妻女山の地図への記載と変遷。上杉謙信斎場山布陣経路想像図。武田信玄別働隊斎場山襲撃経路想像図。(3Dデジタルマップ大) 武田別働隊妻女山襲撃経路断面図。武田信玄別働隊斎場山襲撃経路と清野尋常小学校鏡台山登山運動会の経路の比較。戦国時代の古道・峠・千曲川旧流の検証。妻女山絵地図。妻女山古写真。1948年GHQ撮影妻女山航空写真と地名の解説。古代科野国・信濃国の起源。信濃豪族の系譜。古典における妻女山記述の変遷。近松門左衛門人形浄瑠璃『信州川中島合戦』西條山の項。『実録甲越信戦録』妻女山の項。『甲陽軍鑑』の西條山の項。『千曲之真砂』西條山の項。『 武田三代軍記』川中島合戦図。『名蹟巡錫記』西條山の項。『日本戦史』川中島の戦・妻女山の項。『河中島合戰圖』小幡景憲。『河中島古戰場圖』榎田良長。等絵図色々。方言「ずく」の語源と古代科野国の考察。掲載記事の解説等々。とまあこんな感じで、一冊本が献上できるほどボリュームがあります。いずれちゃんとした形で発表できればと考えています。

 公開中のものとしては、●上杉謙信斎場山布陣想像図・川中島謙信陳捕ノ圖(画像リニューアル!) ●『第四次川中島合戦』啄木鳥戦法の検証(3Dデジタルマップ!)がオススメの記事です。

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