第四次川中島合戦の折りに、上杉謙信が妻女山に布陣したことはよく知られています。しかし、どう布陣したのかを描いた本はなかなか無いのが現状です。『甲越信戦録』や他の古文書などに出てくる細かな地名などは、現在は使われていない古いものも多く、なかなか図式化するのが困難だからでしょう。
そんな訳で、妻女山展望台に行って妻女山松代招魂社の敷地と近年整備された駐車場を見て、ここが謙信本陣と思ってしまう人が後を絶ちません。展望台の看板の説明も不十分なので、中には招魂社を戊辰戦争のものと知らず、謙信縁の神社と思ってしまう人もいるようです。また、狭い山上に12000もの兵がいられるはずがないと、謙信妻女山布陣そのものを否定する人までいる有様です。
既に書き下ろしているように、現在の妻女山は、戦国当時は赤坂山といい、当時の妻女山は斎場山(さいじょうざん)といって斎場山古墳のある513mの頂です。現妻女山からは南西に林道を登って15分ほど。ただ、夏場は途中の林道沿いにオオスズメバチが営巣するので登山は勧められません。熊も出ます。
そんな謙信布陣図を、地元出身の利を活かして作図してみました。写真がそれです。『甲越信戦録』を元にしました。史書ではなく物語性の強い軍記物ですが、現在では地元でもその場所を言える人もほとんどいないため、全てが作り事と思われてしまっている懸念もあります。しかし、登場する地名は全て実在するものです。
これは、信玄の軍勢が千曲川対岸の、横田、小森、東福寺、杵渕、水沢まで対陣し、謙信の善光寺や越後への退路を断っていた時のものです。信玄全軍が海津城へ入ってからは、当然陣形を変えたはずです。『甲陽軍鑑』の編者といわれる小幡景憲の『河中島合戰圖』では、妻女山上部の、地元で陣場平と呼ぶ海津城が望める平地に七棟の陣小屋が描かれています。
「一の手は、直江山城守が赤坂の下。二の手は、甘粕近江守が清野出埼を陣として月夜平まで。三の手は、宇佐見駿河守が岩野十二川原に。四の手は、柿崎和泉守が土口笹崎に。五の手は、村上入道義清が務める。(雨宮神社に布陣)」とあります。
『信濃史料叢書』第四巻の『眞武内傳附録』(一) 川中島合戦謙信妻女山備立覚においては、「赤坂の上に甘粕近江守、伊勢宮の上に柿崎和泉守、月夜平に謙信の従臣、千ケ窪の上の方に柴田(新発田)道寿軒、笹崎の上、薬師の宮に謙信本陣」とあります。
『松代町史』には、「直江山城守は先鋒として赤坂の上より滑澤橋(清野村道島勘太郎橋)に備え、甘粕近江守は月夜平に、宇佐見駿河守は岩野の十二河原に、柿崎和泉守は土口笹崎に陣を構えて殺気天に満ちた。」とあります。
謙信の妻女山進入経路については、「約一万五千の兵を率いて越後春日山を発し、富倉峠を越えて信濃に入り、自ら兵八千を下知し千曲川の東岸に沿うて高井郡大室村(現埴科郡寺尾村に合わせらる)(現在は長野市松代町大室)に宿営した。高坂昌信は謙信春日山を発すと聞きこれを防がんと途中まで兵を出して奮闘すれども越軍の威風に当たるべくもあらざるより引き返して海津城に楯籠(たてこも)った。越軍大室にありて城中の動静を伺い遂に出発して可候峠を越えた。されど城兵戦うことの不利を知り固く城を守って出でず。故に越軍一挙にして山を下り小稲澤(藤澤川)鰐澤(関谷川)を渡り多田越(象山の南)を越えて清野に出で十六日に妻女山に陣を取った。」とあります。土口には宇佐見駿河守が作らせたといわれる宇佐見橋が今もあります。雨宮の渡から東へ延びる道が沢山川を渡る橋です。
江戸時代後期に描かれた榎田良長による『川中島謙信陳捕ノ圖』では、ほぼ絵の中心に二段の墳丘裾のある斎場山が本陣として描かれており、西へ御陵願平、土口将軍塚古墳(前方後円墳)、笹崎山(薬師山)が、実際の地形と同様に描かれています。また、岩野の南、前坂から韮崎の尾根に乗り斎場山へ向かい東風越に至る険路も描かれています。この道は、現在では麓の岩野集落の一部の古老しか知らない道です。前坂の登山口には、戦前までは斎場山を所有していた荘厳山正源寺らしき堂宇も見えます。また、斎場山の北の麓には、會津比賣神社の社殿らしきものが描かれています。江戸時代には既に現在の場所に移されていました。往古山上にあったというが、謙信の庇護を受けていたため、信玄によって焼き討ちされ、後に麓に小さく再建されたと言い伝えられています。
現妻女山(赤坂山)は、特に記載が無く、削平地であることが分かります。当然のことですが、現在ある戊辰戦争の慰霊のために建立された妻女山松代招魂社は、まだありません。現妻女山の北(下)には池があるのですが、蛇池といい、ここから千曲川近くの十二までの字を川式といい、千曲川の旧流の跡です。妻女山展望台から注意深く見ると、千曲川から展望台下へ畑が帯のように繋がっているのが見えるはずです。蛇池は、現在は高速道路です。昭和40年ころは、割と大きな池で雷魚が棲んでいました。蛇池の右上に小さなお堂が見えますが、謙信槍尻之泉でしょう。江戸時代には、松代への道、谷街道は、北国街道の東脇往還だったため、通る人も少なかったようですが、この謙信槍尻之泉だけは霊験あらたかな清水として、全国から水を汲みに来る人が絶えなかったといいます。
千曲川は、戦国時代は斎場山の北から赤坂山にぶつかる様に流れていました。その北側は広大な氾濫原でした。蛇池(現在の展望台の真下)はその跡でしたが、現在は埋め立てられて高速道路です。つまり、斎場山は西北東が千曲川に囲まれた天然の要害だったのです。謙信が斎場山に布陣した大きな理由がそこにあるのかも知れません。歴史研究家は、この事実を見落としています。
*添付の写真の千曲川旧流は、修正前のものです。正しい図は下記の頁の「上杉謙信斎場山布陣想像図・川中島謙信陳捕ノ圖」をご覧ください。
『川中島謙信陳捕ノ圖』は、本当の妻女山について研究した私の特集ページ「妻女山の位置と名称について」から「上杉謙信斎場山布陣想像図・川中島謙信陳捕ノ圖」をクリックしてご覧ください。
そんな訳で、妻女山展望台に行って妻女山松代招魂社の敷地と近年整備された駐車場を見て、ここが謙信本陣と思ってしまう人が後を絶ちません。展望台の看板の説明も不十分なので、中には招魂社を戊辰戦争のものと知らず、謙信縁の神社と思ってしまう人もいるようです。また、狭い山上に12000もの兵がいられるはずがないと、謙信妻女山布陣そのものを否定する人までいる有様です。
既に書き下ろしているように、現在の妻女山は、戦国当時は赤坂山といい、当時の妻女山は斎場山(さいじょうざん)といって斎場山古墳のある513mの頂です。現妻女山からは南西に林道を登って15分ほど。ただ、夏場は途中の林道沿いにオオスズメバチが営巣するので登山は勧められません。熊も出ます。
そんな謙信布陣図を、地元出身の利を活かして作図してみました。写真がそれです。『甲越信戦録』を元にしました。史書ではなく物語性の強い軍記物ですが、現在では地元でもその場所を言える人もほとんどいないため、全てが作り事と思われてしまっている懸念もあります。しかし、登場する地名は全て実在するものです。
これは、信玄の軍勢が千曲川対岸の、横田、小森、東福寺、杵渕、水沢まで対陣し、謙信の善光寺や越後への退路を断っていた時のものです。信玄全軍が海津城へ入ってからは、当然陣形を変えたはずです。『甲陽軍鑑』の編者といわれる小幡景憲の『河中島合戰圖』では、妻女山上部の、地元で陣場平と呼ぶ海津城が望める平地に七棟の陣小屋が描かれています。
「一の手は、直江山城守が赤坂の下。二の手は、甘粕近江守が清野出埼を陣として月夜平まで。三の手は、宇佐見駿河守が岩野十二川原に。四の手は、柿崎和泉守が土口笹崎に。五の手は、村上入道義清が務める。(雨宮神社に布陣)」とあります。
『信濃史料叢書』第四巻の『眞武内傳附録』(一) 川中島合戦謙信妻女山備立覚においては、「赤坂の上に甘粕近江守、伊勢宮の上に柿崎和泉守、月夜平に謙信の従臣、千ケ窪の上の方に柴田(新発田)道寿軒、笹崎の上、薬師の宮に謙信本陣」とあります。
『松代町史』には、「直江山城守は先鋒として赤坂の上より滑澤橋(清野村道島勘太郎橋)に備え、甘粕近江守は月夜平に、宇佐見駿河守は岩野の十二河原に、柿崎和泉守は土口笹崎に陣を構えて殺気天に満ちた。」とあります。
謙信の妻女山進入経路については、「約一万五千の兵を率いて越後春日山を発し、富倉峠を越えて信濃に入り、自ら兵八千を下知し千曲川の東岸に沿うて高井郡大室村(現埴科郡寺尾村に合わせらる)(現在は長野市松代町大室)に宿営した。高坂昌信は謙信春日山を発すと聞きこれを防がんと途中まで兵を出して奮闘すれども越軍の威風に当たるべくもあらざるより引き返して海津城に楯籠(たてこも)った。越軍大室にありて城中の動静を伺い遂に出発して可候峠を越えた。されど城兵戦うことの不利を知り固く城を守って出でず。故に越軍一挙にして山を下り小稲澤(藤澤川)鰐澤(関谷川)を渡り多田越(象山の南)を越えて清野に出で十六日に妻女山に陣を取った。」とあります。土口には宇佐見駿河守が作らせたといわれる宇佐見橋が今もあります。雨宮の渡から東へ延びる道が沢山川を渡る橋です。
江戸時代後期に描かれた榎田良長による『川中島謙信陳捕ノ圖』では、ほぼ絵の中心に二段の墳丘裾のある斎場山が本陣として描かれており、西へ御陵願平、土口将軍塚古墳(前方後円墳)、笹崎山(薬師山)が、実際の地形と同様に描かれています。また、岩野の南、前坂から韮崎の尾根に乗り斎場山へ向かい東風越に至る険路も描かれています。この道は、現在では麓の岩野集落の一部の古老しか知らない道です。前坂の登山口には、戦前までは斎場山を所有していた荘厳山正源寺らしき堂宇も見えます。また、斎場山の北の麓には、會津比賣神社の社殿らしきものが描かれています。江戸時代には既に現在の場所に移されていました。往古山上にあったというが、謙信の庇護を受けていたため、信玄によって焼き討ちされ、後に麓に小さく再建されたと言い伝えられています。
現妻女山(赤坂山)は、特に記載が無く、削平地であることが分かります。当然のことですが、現在ある戊辰戦争の慰霊のために建立された妻女山松代招魂社は、まだありません。現妻女山の北(下)には池があるのですが、蛇池といい、ここから千曲川近くの十二までの字を川式といい、千曲川の旧流の跡です。妻女山展望台から注意深く見ると、千曲川から展望台下へ畑が帯のように繋がっているのが見えるはずです。蛇池は、現在は高速道路です。昭和40年ころは、割と大きな池で雷魚が棲んでいました。蛇池の右上に小さなお堂が見えますが、謙信槍尻之泉でしょう。江戸時代には、松代への道、谷街道は、北国街道の東脇往還だったため、通る人も少なかったようですが、この謙信槍尻之泉だけは霊験あらたかな清水として、全国から水を汲みに来る人が絶えなかったといいます。
千曲川は、戦国時代は斎場山の北から赤坂山にぶつかる様に流れていました。その北側は広大な氾濫原でした。蛇池(現在の展望台の真下)はその跡でしたが、現在は埋め立てられて高速道路です。つまり、斎場山は西北東が千曲川に囲まれた天然の要害だったのです。謙信が斎場山に布陣した大きな理由がそこにあるのかも知れません。歴史研究家は、この事実を見落としています。
*添付の写真の千曲川旧流は、修正前のものです。正しい図は下記の頁の「上杉謙信斎場山布陣想像図・川中島謙信陳捕ノ圖」をご覧ください。
『川中島謙信陳捕ノ圖』は、本当の妻女山について研究した私の特集ページ「妻女山の位置と名称について」から「上杉謙信斎場山布陣想像図・川中島謙信陳捕ノ圖」をクリックしてご覧ください。