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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

時に笑える『地名辞典』における妻女山の記述 その3【妻女山里山通信】

2008-06-21 | 歴史・地理・雑学
多くの電子辞書に搭載されている『百科事典 マイペディア』の記述。
「さいじょさん【妻女山】
長野県松代(まつしろ)町清野(きよの)の西部にある山。鞍骨(くらぼね)城から続く山系の突端に位置し、北には海津(かいづ)城、西には千曲(ちくま)川の彼方に川中島(かわなかじま)が望める。標高546m。西条山とも記される。永禄4年(1561年)8月上杉政虎(謙信)は西条山に登って武田信玄の拠る海津城攻略の評定をしている。9月信玄は8000の軍勢を率いて川中島に渡り、12000の軍勢を西条山へ向かわせたが、謙信は千曲川を渡り川中島の武田軍を攻略した。妻女山には二つの郭からなる簡単な構えがみえる。」
                   ◆
 まず、当地では、さいじょざんと濁って発音し、さいじょさんとは言わない。鞍骨(くらぼね)城から続く山系の突端に位置するのは、現妻女山であり、標高は411mである。(国土地理院25000分の1地形図より)ちなみに、旧埴科郡の最高峰・鏡台山から戸神山脈(大嵐の峰)、鞍骨山(清野山)、天城山(てしろやま)から斎場山、赤坂山、薬師山(笹崎山)に至る長い山脈を埴科山脈と称することがある。「北には海津(かいづ)城、西には千曲(ちくま)川の彼方に川中島(かわなかじま)が望める。」とあるが、現妻女山(本来は赤坂山)からも往古の妻女山(本来は斎場山)からも、海津城は東(厳密には東北東)、川中島は北に見える。現地に行けば一目瞭然である。あまりにもずさんで初歩的な間違い。

 「標高546m。」は、大正元年測量の日本帝国陸軍陸地測量部測量の地形図を元にしたものであろうが、既に何度も記しているように、546という数字は単なる三角測量の際の「標高点」で、妻女山の山頂ではない。そもそも地形図にあるような山頂そのものが存在しない。地形図自体が誤りである。現地には標石も無い。昭和35年の改訂版(下図右)では、標高点は無くなり(妻女山頂なら無くなるはずがない)、現在の地形図では、山頂そのものの閉じた線が無くなり、(存在しないのであるから当然)標高点は、さらに南の594mに移動している。妻女山が動くはずはない。

 更に穿った見方をすれば、当時の測量のミスではなく、1903年(明治36年)に刊行の、日本陸軍参謀本部編集『日本戦史叢書』川中島の戦(日本戦史学会編・豊文館・明44.7)を都合良く補足するために、ありもしない妻女山が、天城山から赤坂山の尾根上に、軍部によって捏造された可能性も完全には否定できない。

 「9月信玄は8000の軍勢を率いて川中島に渡り、12000の軍勢を西条山へ向かわせた」とあるが、この西条山は、『甲陽軍鑑』の誤記からの引用であり、斎場山(さいじょうざん)のことである。本来の西条山は、にしじょうやまと読み、西条氏の竹山城があった象山(本名は臥象山・竹山・城山ともいう)である。あるいは、西条村最高峰の高遠山を西条山という場合もあり、狼煙山(舞鶴山・明治14年の西条村村誌には、「一に高テキ山と云ふ」とあり)と合わせて西条村青垣山三山と称する。西条山とも記されるという記述は完全な誤り。

 「妻女山には二つの郭からなる簡単な構えがみえる。」とあるが、どこの何を指しているのか全く不明である。赤坂山の土塁であれば、招魂社建立、或いは、それ以前に松代藩の射撃場建設の際に作られたものであろうし、他には、謙信床几塚と呼ばれる斎場山古墳の円形の削平地、陣場平の削平地と石垣、切岸、御陵願平の二段の削平地等が考えられるが、斎場山古墳の二段の墳丘裾は、古墳時代のものであるし、それ以外は発掘調査もされず、未だ戦国当時のものと同定されてはいないはず。実に曖昧な記述である。

 しかし、上杉謙信は、たとえ一日でも野陣をするときは陣小屋を造ったと記録に残っているので、20日以上布陣の妻女山には、それ相当の陣小屋を造ったと思われる。『甲陽軍鑑』の編者といわれる小幡景憲彩色の「河中島合戰圖」(東北大学付属図書館狩野文庫)では、陣場平辺りに柵、または板塀で囲まれた門のある陣所が描かれている。中には寄棟風の小屋が七つほど見える。戦国時代は、陣小屋を建てるために乱取り、または、小屋落しという大規模な略奪が行われた。

 絵巻には、建具や床板、などを略奪する様子が描かれたものがある。謙信も妻女山陣取りの前に、松代や妻女山周辺で大掛かりに焼き討ちや乱取り、小屋落し行ったことが記されている。軍勢が動く際には、行軍しながら略奪が行われたという。途中の住民はたまったものではない。略奪されるのは物や食糧だけではない、人も捕らわれ奴隷市がたった。また、戦場には長陣となるとどこからともなく遊女が現れ身を売ったという。もちろん足軽や雑兵が買えるわけはないが。宣教師のルイス・フロイスは、日本女性の貞操観念の無さを心底嘆いている。

 陣取りに欠かせないのは、その外に水である。妻女山では、謙信槍尻之泉が有名だが、実はここは昔も今もそんなに水量が豊富ではない。地形的にそうなのである。それよりも斎場山の南側、陣場平から堂平の南西に下ったところに蟹沢(がんざわ)という水量豊富な水場がある。ちょうど天城山の北西の谷で、名前の通り沢ガニがたくさんいた。現在も雨期には下の道路にまで水が溢れるほどである。また、清野側の谷にも何カ所か水量豊富な水場がある。

 戦では、敵の領地の井戸や川には糞尿を投げ込んで使えなくしたという。武田の最初の攻撃は、投石だったというし、山城籠城の切り札は、上からの糞尿攻撃だったという。糒(ほしい)や乾物など保存食や携行食が発達したのもこの頃であるが、何を食べても出るものは出る。二万人も籠城したら糞尿の始末だけでも大変なものであろう。秀吉の小田原城攻めでは、六万人も籠城したというが、四万人近くは農民など領民だそうだ。領主は領民を守る必要もあったのだ。その地下人といわれた農民も略奪されっぱなしではない。戦の後は、死人から金目の物を略奪したのである。いやはやなんでもありの戦国時代である。

 学校で習う日本史は、権力者の歴史である。それ故権力者を主体とした歴史観が形作られる。大河ドラマの英雄史観が批判されるのもそのためである。しかし、実際は権力者も当時の社会システムの構成員にすぎない。現在の日本史の研究は、そのパラダイム(思考の枠組み・クーンは自然科学に対してパラダイムの概念を考えたのであり、社会科学にはパラダイムの概念は適応できないと発言しているが…。)の転換が進められている。民衆から見た権力者の視点が必要であり、それにより社会システムの解析が位置づけられるとしている。戦国時代は、飢饉と戦が日常の時代であった。そこから逃れる術は、権力者にも民衆にも無かったのである。

参考文献:『甲陽軍鑑』高坂弾正著,山田弘道校 甲府:温故堂 『実録甲越信戦録』西沢喜太郎編 長野:松葉軒 『百姓から見た戦国大名』黒田基樹 ちくま新書 『雑兵足軽たちの戦い』東郷隆/上田信絵 講談社文庫
■「国土地理院の数値地図25000(地図画像)『松代』」をカシミール3Dにて制作。

 妻女山について研究した私の特集ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をぜひご覧ください。
 
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時に笑える『地名辞典』における妻女山の記述 その2【妻女山里山通信】

2008-06-21 | 歴史・地理・雑学
 ああっ惜しい!記述の『角川日本地名大辞典』です。
 岩野について、「いわの 岩野く長野市> 千曲川流域,薬師山・妻女山の支脈赤坂山山麓に位置する。多くの円墳が分布し,また往古斎場山に会津比売神社(信濃国造建五百建命の室)があったが(埴科郡志),その祭祀を行う地の麓にあるため古くは斎野(いわいの)村と称し、延徳年間頃に上野(うわの)村となり,寛文6年に岩野(いわの)村と改称したという(県町村誌)。妻女山中央の南部の高原は,永禄4年の川中島の戦で上杉謙信が陣営を置いた地で,陣場平と呼ばれる。」

 斎場山という名称が出ているのは、見たところこの辞典だけでした。ところが、斎場山と妻女山が同じ山で、斎場山は、妻女山の往古の名称であるという記述がどこにもないんですね。惜しい!

 西条山と妻女山についての記述です。
「さいじょうざん 西条山 ⇨妻女山(さいじょざん)〈更埴市・長野市〉
 さいじょざん 妻女山〈更埴市・長野市〉
西条山ともいう。更埴(こうしょく)市と長野市の境にある山。標高546m。千曲川右岸の鏡台山から北北西方向に延びる尾根末端部付近の高まりで、山頂からは千曲川・川中島などを一望できる。山名は、山麓に会津比売命を祀るためとも,また信濃国造の妻に由来するともいう。(中略)永禄4年川中島の戦の際,上杉謙信が本陣を構えたことで知られる。海津城(長野市)周辺から立ち上る炊煙によって武田信玄の動きを察した謙信は直ちに山を下り,千曲川を渡って川中島へ進出した。その渡河地点が山麓の雨宮の渡し(更埴市)である。山中には,戊辰・日清・日露の戦没者の霊を祀った招魂社がある。」


 大変惜しいですね。斎場山という名称まで出ているのに…。西条山は、正しくは西条氏の居城・竹山城(西条城)があった象山(隠元大師の故郷の山)のことであり、「にしじょうやま」と読む。江戸時代には竹が植えられていたので竹山ともいう。または、西条村の最高峰・高遠山からノロシ山の山域をいうこともある。と書いてあったら完璧だったのですが。地元では、決して妻女山を西条山とはいいません。このことに松代藩は、相当腑(はらわた)が煮えくりかえっていたのではないでしょうか。「違うんだよ! 西条山は別の山だ! 甲陽軍鑑には困ったものだ。高坂弾正のアホめが! 小幡景憲の戯け者が!」って。まあ、戦国時代の感状や書状を見ると、読みさえ合っていれば漢字はなんでもありだったというのがよく分かります。一々大将自ら筆を執るのではなく、口述筆記も多いわけですから、間違えるのも当然です。大切なのは読みであって漢字ではないのです。これは地名学にも当てはまるそうです。

 享保16年(1731)松代藩士竹内軌定による真田氏史書『眞武内傳附録(一)川中島合戦謙信妻女山備立覺』には、「甲陽軍鑑に妻女山を西條山と書すは誤也、山も異也。」と明記しています。この松代藩が、天保9年(1838)に江戸幕府の命で『天保国絵図信濃国』完成。ここぞとばかりに妻女山と記載したのですが、これ以後も江戸や上方の歌舞伎や浮世絵、名勝図会などには、西条山と書かれてしまい、妻女山の名称はなかなか全国区になりませんでした。マスコミもない時代ですから致し方ありません。善光寺初め、地元の土産物屋で売られていた川中島合戦絵図や『甲越信戦録』には、妻女山と書かれるようになったのですが…。おそらく松代藩が、そう記するようにと奨励、あるいは命じたのでしょう。

 次に『日本歴史地名大系』平凡社の記述ですが、こう記されています。
「妻女山 (現)長野市松代町清野 清野村の西部、鞍骨城より続く山系の突端に位置し、北は海津城を望み、西を流れる千曲川の彼方に川中島を望む。標高一〇〇メートルで、「甲陽軍鑑」には「西条山」とも記される。」って。妻女山の標高が100mですって!? 思わず図書館で吹き出してしまいました。妻女山はクレーターか!? 岩野の標高が351mですから、妻女山は深さ251mのクレーターということになります。

 好意的に考えて、平地との比高100mとしても、現妻女山は411mですから比高60m、本来の妻女山(斎場山)は、513mですから比高162m、ありもしない546mが妻女山とすると比高195mとなってしまいます。いったいどこの山を妻女山といっているのでしょう。薬師山でも比高82mです。う~む、理解に苦しみます。

「「甲陽軍鑑」には「西条山」とも記される。」というのは、「妻女山を西条山ともいう」という記述よりは、はるかにマシですね。しかし、標高100mとは…。最新版では直っているのでしょうか。いやはやこれでは、権威も信用も台無しです。

 会津比売神社については、「岩野村の妻女山の麓に位置する。祭神は会津比売命。創建はつまびらかでないが、「三代実録」によれば、貞観八年(八六六)六月一日条に「授信濃国無位武水別神従二位、無位会津比売神、草奈井比売神並従四位下」とある。なお「諏訪旧蹟誌」に、会津比売命は、会知早雄命(現埴科郡坂城町鼠宿に神社)の娘で、信濃国造建五百建命の室とある(埴科郡志)。」とあり、地元の御由緒と同じですね。室(シツ)とは、正室・妻女のことです。ただ、里俗伝でいわれているように土口将軍塚古墳が会津比売命の墳墓というのはどうでしょう。

 森将軍塚古墳が、ダンナさんの建五百建命(たけいおたつのみこと)の墓とすると、土口将軍塚古墳の造営は、100年ぐらい後といわれているので変ですね。それに森将軍塚は、大きいですから、夫婦ならそこに埋葬するのではないでしょうか。森将軍塚は、六世紀まで200年近くに渡って追葬や祭祀が行われたといわれていますし。森将軍塚-川柳将軍塚-土口将軍塚-倉科将軍塚-有明山将軍塚の順番で造られたようですが、これは代々の古代科野国の王と考えた方が自然なんじゃないでしょうか。不思議なことに川柳は森を、土口は川柳の方を向いているんですね。つまり後に造られた方が先に造られた方を向いているんです。これは何か意図的なものがあるのでしょうか。特に森将軍塚-川柳将軍塚-土口将軍塚で作るトライアングルの中央には、龍王と呼ばれる場所があります。千曲川の自然堤防の上で、古代人の住居や信濃国造建五百建命の館があったのではといわれている場所です。

 話が妻女山から外れましたが、写真の真北の千曲川の土手から見た斎場山と海津城から見た斎場山を比べていただくと、その位置関係がよく分かってもらえると思います。地形図は、妻女山の位置の間違いの元となった旧日本陸軍参謀本部陸地測量部のものです。546は単なる測量点で山頂の印ではありません。地図の下の三角点がある天城山(てしろやま)694.6mと比べていただくと分かると思います。なにより、測量の未熟さか捏造か分かりませんが、そもそも546mなるピークが存在しないのです。二番目の写真をご覧いただくと分かると思いますが、陣場平とある辺りがそうですが、尖ったピークはありません。もちろん、大正元年以降に山を削ったという事実もありません。

 ただ、海津城から見た斎場山は、天城山から赤坂山(現妻女山)の尾根の途中にあるように見えますね。これがくせ者です。一番上の写真で分かるように、斎場山は東風越を挟んで、その尾根の稜線より400mほど西にあるのです。また、一番上の写真をご覧いただけば、赤坂山ではなく斎場山が本陣というのが説得力を持って伝わるのではないでしようか。斎場山を中新に赤坂山から薬師山までずらりと旗を立て兵を並べれば、千曲川対岸に並ぶ武田軍にも相当な威圧になったはずです。

 そして武田軍が、海津城に入ってからは、方向が90度変わるわけですから、海津城が正面となる陣場平を本陣として赤坂山から天城山下まで、手前の月夜平や中道島勘太郎橋まで陣取りしたと見るのが自然かと思われます。妻女山一帯には、陣所となったと思われる、あるいは陣所に適地と思われる平地が数カ所あります。第一に斎場山西の御陵願平。大きく二段に分かれた広い平地は最適。更に西へ下って薬師山までの平地は、長さが200mぐらいあります。反対に南東へ天城山方面へ行くと、陣場平と呼ばれる大きな平地があります。ここも大きく二段に分かれており、上の段の北面には、当時のものと思われる石垣が残っています。石垣の北側は、高さ10mほどの切岸です。ほとんど通年、藪に覆われているので、この事実を知っている人は少なく、歴史本でも見たことがありません。冬枯れの落葉した後が最も見に行くにはいいのですが、雪が降ると隠れてしまいます。地元に伝わる陣場平という名称は、まさしく陣所であった証で、ここに陣小屋、あるいは陣城が造られたと思われます。

 上杉謙信は、たとえ一夜の野陣でも陣小屋を造らせたといいます。柵や奥番衆により防御された陣の中央に大将と近臣の居所があり、その周りに足軽、中間などの下級武士団が取り囲む構造になっていました。斎場山は、南北が急峻な斜面なので防御がし易かったと思います。陣場平はそれに比べるとより強固に周りを固める必要があったと思われます。

 小幡景憲彩色の『河中島合戰圖』には、陣場平辺りに、謙信公御陣所として立派な社殿のような建物が七つほど描かれています。当時の戦では、陣城、或いは陣小屋を設営するのが常道だったそうで、材料も運んだそうですが、また一方で陣小屋や陣城を造るために、乱取りが行われたわけです。時には地元の農民の家を壊し、それを陣小屋の材料にするわけです。人取りも行われ、女子供は奴隷市場に売られたわけです。もちろん食糧の略奪も当然のように行われました。農民(地下人)は、数少ない財産を山中に隠し、隠れて戦見物し、終わると金目の物を死者からはぎ取ったということです。本陣となった斎場山古墳は、壁が石積みでなく泥壁ですが、これは陣小屋を造る際に剥ぎ取って使ったのではと考えます。

 さて、色々と権威有る地名辞典の妻女山について検証してきましたが、妻女山は本当に数奇な運命に弄ばれた山であるとつくづく思うとともに、地名辞典や地形図の作成者には、より正確な記述を目指して謙虚に日々努力していただきたいと心より願わずにはいられません。特に近年行政による大合併で、歴史有る地名が次々と消え、安易で変な地名が増殖しています。守ろうとしなければ、歴史は廃れてしまうのです。それは、自らの尊厳とアイデンティティを捨て去ってしまう、人間として非常に危険なことであると気が付かなければなりません。

 詳細は、妻女山について研究した私の特集ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をご覧ください。
 
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