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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

「IQ84の人生」村上春樹さんとジョージ・オーウェルと(妻女山里山通信)

2009-07-15 | シネマ・テレビ
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 村上春樹さんの最新作『1Q84』ではありません。IQ(アイキュー)84です。まあ普通の頭脳か、ちょっと劣る程度。IQというのは絶対的な数値でもなければ知能を測る唯一の方法でもありません。生活年齢と精神年齢の比を基準とした知能指数測定と、同年齢の中での偏差値知能指数がありますが、通常は前者をいいます。

 子供の頃すごく精神年齢が高くて大人になっても子供みたいな人(アダルトチルドレンのことではない)は、年をとるに連れてIQが下がるわけです。知能に生得的、遺伝的基盤があることには疑いがないわけですが、生活環境や、その変化によっても変わるわけですから、鳶が鷹を生むこともあれば、その反対もあるわけです。ただこの数値には、もっている鋭い感性は測定不能で含まれません。

 『1Q84』ですが、ジョージ・オーウェルの『1984』をどこかで意識した作品と各所でいわれています。終戦後の1948年に書かれたという『1984』は、第二次大戦後に台頭したソ連などの全体主義国家への風刺的な作品として描かれた近未来小説です。私は、この作品を1984年の冬、南米のブラジル、ボリビアへの放浪の旅の途中に読みました。街中に監視カメラが設置され、行動が24時間政府の手によって見張られるという近未来都市の描写はかなり衝撃的なものでした。同時に呼んだ大人の寓話『動物農場』も、極めて近未来的暗示的な作品でした。

 しかし、現在を見てみれば大都市には街中に監視カメラが設置されています。違うのは全体主義国家ではないということ。それでも、全てがある強固なシステムの中にはめられているのは確かです。商業主義的なマーケティングの手法が行き渡り、予定調和的な流行が街並みにも商品にも溢れかえっています。そこには自発的なムーブメントのようなものさえ計算されて存るわけです。形而下では、全体主義国家の無機質な景観と対局にありながら、その根元的な本質においては、相似率が限りなく高まってしまうという皮肉。

 1984年は、アップルのマックが生まれた年。軽薄短小でバブル景気前夜。ポストモダンが台頭し、近代主義を支えた大きな物語の終焉と新たな様式を提唱したのですが、なんだか突拍子もない、目の利かない骨董親父をだますような作品ばかりが街に溢れかえったのは皮肉なことでした。と、現在を見るとネット文化の普及で情報はかつてないほどグローバル化して、近代と現代の境界線を明確にしてしまいました。ポストモダン自体が現代からはじきだされるという、これも皮肉な現象も起き、バーチャル世界に翻弄されているのは、もはやネットおたくだけではありません。

 IQ84の人生ですが、『木を植えた男』という1982年にアカデミー賞短編映画賞を受賞したムービーがありますが、さしずめ『木を切る男』というところでしょうか。どちらも森の再生の話です。森の再生は、人の再生なのです。しかし、切って森を再生するという行為は、原罪を背負いながら生きるような側面があります。『MY LIFE AS A DOG』というスウェーデン映画がありましたが、何の因果か人工衛星に乗せられてしまったライカ犬のような人生にも、爪の垢ほどの希望はあるということでしょうか。確かあの、世界で最も有名になった(本人はその事実を知りませんが)犬は宇宙の塵と消えたのではなかったでしょうか。

 『1Q84』は、明快なエンディングではないそうですが、最近映像を見て老けたなと感じたのは、共通性は全くありませんが、村上春樹さんと金正日でした。あっ、ジョージ・オーウェルの『1984』でつながるかな…。それでも地球は回る。でもいつかは止まる。『2010年宇宙の旅』、結末を覚えていますか。まずは2012年、何が起きるか楽しみにしましょう。なんだか飽きちゃった。そういってアキラが宇宙のスイッチを消さないといいのですが…。

■『国分寺・国立70Sグラフィティ』村上春樹さんの国分寺「ピーター・キャット」の想い出。彼のカタルーニャ・スピーチは必見。
コメント (2)
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