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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

上杉景虎が自害した御館の乱の鮫ヶ尾城跡。倭国大乱の斐太遺跡。ナウマンゾウ博物館。錦秋の苗名滝(妻女山里山通信)

2019-11-12 | 歴史・地理・雑学
 妻女山里山デザイン・プロジェクトの恒例の秋のトレッキングは、私が9月中旬にひとりで訪れた上杉謙信が信州からの攻めの備えとして築城した鮫ヶ尾城跡へ。ここは、謙信亡き後跡目相続で、上杉景勝と上杉景虎が争い。景虎が自害した山城として有名です。しかし今回私は、魏志倭人伝に載る卑弥呼の倭国平定(邪馬台国)の前に起きた倭国大乱に興味を持って訪れました。

(左)道の駅あらいから近くの鮫ヶ尾城へ。御館の乱の説明を読みます。向こうは案内所。お茶と柿、漬物を頂きました。(右)斐太遺跡群の説明と自然。

(左)鮫ヶ尾城の図(上越マイスターと呼ばれた大塚直吉氏作)。(右)御館の乱の説明。独身の謙信には子供がなかったため、景勝、景虎共養子です。謙信は跡目相続のことを考えていなかったのでしょうか。

 鮫ヶ尾城跡の縄張り。ちなみに南が虎口になります。最近、熊が目撃されたとか。

(左)斐太遺跡群の説明です。倭国大乱の時に現れた東日本最大級の住居跡。その後も使われたようですが。倭国大乱とは何か。倭国大乱で軍事的緊張が高まった時期に、短期間に使われた一過性の集落だそうです。その後、人々はどこへ行ったのでしょうか。信州へ逃れた人もいるのではないでしょうか。春秋時代の紀元前480年頃に越により滅びた呉のエリートが渡来。紀元前330年頃に滅びた越が渡来とすると、日本全体で60万人といえども渡来した地域は近かったはずで、倭国大乱が起きても不思議はないと考えます。5月に鳥取で弥生時代の110体におよぶ人骨が発掘されましたが、皆頭や体に襲われた大きな穴が開いていました。倭国大乱の証拠かもしれません。先に渡来した呉の民が越の民を襲ったのか。逃れた越の人々が斐太遺跡に隠れ住んだとかもあったかもしれません。越後の地名がその名残かもしれません。(右)残る弥生式土器。縄文末期の日本の人口は8万人ともいわれます。弥生時代に大量の移民があったことが分かります。そして、古墳時代には400万人に。日本は移民の国なのです。
 その後秦の始皇帝の時代に失われた古代ユダヤの一族といわれる徐福を長とした集団が渡来し大和王権の祖となったといわれます。その徐福が連れてきたのが高度な技術者集団の物部氏という説。伊勢神宮の内宮や外宮を裏で支えているのは伊雑宮(いざわのみや)という物部系の伊勢神宮であり、京都においても天皇を守っていた下鴨神社と上賀茂神社を支えているのは物部系の河合神社。伊勢神宮は現在地に鎮座するまで、90年かけて候補地を転々とした。それを元伊勢(もといせ)というが、その元伊勢の中でも最重要な存在が籠神社(このじんじゃ)。これは、特別に本伊勢(ほんいせ)とも呼ばれている。籠神社の裏社紋がユダヤのシンボルであるダビデの星であるという事実。安曇族と徐福。飯縄権現が白狐に乗った烏天狗。これも古代ユダヤとの関連性。諏訪大社にイスラエル人を連れて行ったら、これは古代ユダヤの神殿と同じと。守屋山とか古代ユダヤ語が伝わっているとか、ダイナミックな古代史があったことが分かります。

(左)池の畔を巡って山城へ。太公望がへらぶな釣りをしていました。(右)つづら折れで登るとすぐに広い尾根に乗ります。ここに弥生時代の住居跡があります。

(左)アキノギンリョウソウ(ギンリョウソウモドキ:銀竜草擬)が結実していました。葉緑素を持たない植物です。(右)オオイワカガミの葉。群生地があります。5月に満開の頃はさぞ美しいでしょうね。

(左)足元にグランドカバーの様に赤い実をつけたヤブコウジが広がっています。(右)長く深い空堀。

(左)本郭の手前にある通称東一の丸。(右)少し下って小道を進むと本丸の四阿が見えてきます。

(左)本郭の下にある水場。サイフォンの原理で湧き出しているようです。水場のない山は、山城として機能しません。兵糧攻めに遭ったら生き残れません。春日山城跡もそうです。(右)そこに咲くノコンギク。

(左)山頂です。風もなく穏やかです。(右)上越の平野。遠く米山が見えます。

(左)国指定史跡鮫ヶ尾城の案内。(右)道の駅あらいで買ってきた寿司やあんこうの唐揚げ、ノドグロのさつま揚げ、海老と蓮根の落とし揚げ、メンバーが作ってきたピーマンと長ネギの煮浸し、柿などで昼食。

 赤とんぼが舞う穏やかな山頂。遠く日本海も見えます。山に囲まれた信州と違って開放感があります。気持ちがいい。信州の中信、東信、北信の人たちは、上越や糸魚川の海は自分たちのものと思っています。谷浜には信州の海の家があるし、週末は長野、松本ナンバーの車ばかりです。海釣りに来たり海水浴に来たり。道の駅のパンフレットも新潟と長野を同時掲載したものが多く、長野と新潟は愛し合っているのです(笑)。逆に野沢温泉などに行くと長岡ナンバーばかりだったりします。

(左)まったりと昼餉を楽しんだ山頂の四阿。(右)記念撮影。実はメンバーに、台風19号で水害に遭った者がいます。農機具倉庫が40センチほど水没し、農業機械に被害が出たとか。我が家も河川敷の畑が水没し、長芋の収穫に影響が出ています。それでもこんな風に日帰りの山行に来られるだけいい方なのです。妻女山里山デザイン・プロジェクトも妻女山山系の被害をまだ完全には把握できていません。

(左)コムラサキの鮮やかな実。(右)ホツツジが一輪咲いていました。

(左)弥生時代の竪穴式住居の再現。(右)アミタケがありました。

(左)野尻湖畔にあるナウマンゾウ博物館へ。フォッサマグナの命名者であるナウマン博士。(右)ナウマンゾウの臼歯。石器人はこんな大きなナウマンゾウを石槍でしとめていたのです。大量の肉をどうやって保存したのでしょう。干し肉や塩漬けでしょうか。美味しかったのでしょうね。狩りすぎて、ナウマンゾウは滅亡へと向かいました。

(左)石器人が作ったナウマンゾウの牙とオオツノシカの角で作られた月と星と思われる祈りのオブジェ。(右)和田峠で産出し全国に流通した黒曜石。刃物として使われました。

 次に苗名滝へ。観光客でいっぱい。中国からの団体客も。紅葉の季節です。有名な観光地で軽装の人が多いのですが、トレッキングシューズをおすすめします。

(左)滝口。(右)滝壺の水煙。

 轟音が響きます。この後、冷えた体を温めに苗名の湯に入ってから信州に帰郷。

(左)慰労会は、篠ノ井消防署隣の長崎亭。クロソイの刺し身。生牡蠣のフライに酢牡蠣。赤イカの刺し身などを堪能。(右)締めは長崎ちゃんぽん。いい山行でした。

上杉謙信が築城し、景勝と景虎が争った「御館の乱」で有名な鮫ヶ尾城へ。「倭国大乱」の頃からの斐太遺跡。秋桜(妻女山里山通信)

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