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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

宮彫りの名工・北村喜代松の木彫を求めて行脚の旅=番外編 圧巻の鬼無里祭り屋台と神楽。沼の平湿原再び(妻女山里山通信)

2020-08-15 | 歴史・地理・雑学
 所要で安曇野の長男のところに一泊した翌日は、ちひろ美術館などがある県道306号を北上します。森の中を抜ける気持ちのいい道です。ブルーベリー狩りの季節。白馬に着いたら国道406号へ。嶺方峠を目指します。鬼無里から白沢洞門を抜けた時に晴天なら見られる北アルプスの絶景で有名です。そこから鬼無里へ下ります。

 道の駅の向かいにある鬼無里ふるさと資料館へ。息子たちが子供の頃に家族で訪れて以来です。名工、北村喜代松とその一門の見事な四基の祭屋台と三基の神楽が見られます。入ってすぐに目に入るのは、壮麗精緻な宮彫りの鬼無里神社の屋台。安政四年(1857)の作。圧巻は龍が巻き付いた二本の柱。これを一本の欅から彫り出しているのです。

 鬼無里神社の屋台正面。唐破風の二頭の龍も欅の一本彫り。軒唐破風内には、中国の道教にまつわる説話集『列仙伝』にある仙人の祝鶏翁(しゅくけいおう)。

祝鶏翁のアップ。ライティングの関係でよく見えないのが残念ですが、鳥籠の中に雛三羽が彫られているという最高難度の木彫があります。精緻な籠の造形も見事です。

 明治六年(1873)作の、三嶋神社屋台の唐破風内部の虎の子渡し。(宋の周密撰「癸辛雑識続集下」による。虎が三匹の子を生むと、一匹が彪ひようで他の子を食おうとするので、川を渡るときに親はまず彪を対岸に渡し、次いで他の一匹を渡してから彪を連れ帰り、次に残る一匹を渡し、最後に彪を渡したという故事から:大辞林)
 その下には二頭の子を従えた子持ち龍。横に長く伸びた髭が折れてしまわない様に、巧みな造形が施されています。

 賀茂神社の神楽は、文久元年(1861)の作。側面の力神。お腹の木目の活かし方が絶妙。

 諏訪神社の祭屋台。背面の欄間の飛龍の大迫力。

 鳳凰と龍の組み合わせ。

 白髪神社神楽。思ったよりも小さく精緻な木彫に驚かされました。

 賀茂神社神楽。ぜひ間近で見てください。訪れていた若い夫婦が凄い!を連発していました。

 北村喜代松、四海、正信のプロフィール。鬼無里ふるさと資料館で求めた『屋台神楽と彫工喜代松』によると、ー喜代松は、木に対する執着が強く、晩年になって、長男四海に遺した訓えに、「木彫用に使われる木は、どんなに枯れても生きている。腕が未熟であったり、木を彫るとき傲慢な態度で取り掛かったりすると、木は人に逆らって思うどおり彫らせてくれないものだ。腕が上達して、しかも心を素直にして木にむかうと、木も素直になって、思うどおり彫らせてくれる」と言ったとか。木には木目があり石には石目があります。

(左)神楽の側面。小さな神楽に更に小さな木彫。ため息が出ます。(右)四海の大理石彫刻。微妙な筋肉のうねり。柔肌の質感。

(左)資料館では、鬼無里の自然や歴史の展示も観られます。鬼無里村や麻績村、美麻村などの名産だった苧麻(ちょま)。我が家には埴科郡の山で大麻の刈り取りをする写真が残っています。大麻は麻布や綱になるだけではなく、神道と深い結び付きがありました。(右)鬼無里の昔の居間。今でも古民家はこんなでしょう。帰りに以前友人に依頼されて武井神社の木彫の保全活動を手伝った時に知り合った、資料館の古畑さんとも再開でき、色々話をすることができました。

 次いで以前、正月休みに息子たちと参拝した近くの貴女紅葉守護仏の寺院「凌雲山松巌寺」へ。
大晦日は鬼無里村の東京へ。賀茂神社春日神社と白髭神社。貴女紅葉の松厳寺。戸倉の水上布奈山神社(妻女山里山通信)

 荒波の中の数十頭の亀。時代的には、葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」に影響されているのは間違いないでしょうが、それを木彫で更に鋭く表現する喜代松の技に感服します。

 古畑さんに教えていただいた近くの鬼無里神社へ。社殿の額縁の縁飾りが喜代松作とか。見事です。

 鬼無里から大望峠展望台へ。そこから望む荒々しい戸隠西岳。そこから戸隠宝光社、中社、奥社へと。連休でどこも満車。奥社参道はまるで原宿の竹下通りの様。とっとと通過します。信濃町へ向かうとうもろこし街道は、反対側が長い渋滞。野尻湖も満車で通過。賑わいの斑尾高原から、沼の原湿原へ。

 沼の原湿原も満車でしたが、たった5台。皆周遊コースを歩くので出会ったのはたった二組。前回訪れた時より花も昆虫も少なめでした。

(左)バッタ茸に冒されたミカドフキバッタ。撮影しているととあるグループが通りかかり待っていてくれたので説明しました。菌はバッタに取り付くと高所に誘引し瞬殺します。体内で菌を増やし、胞子を飛ばします。高いところに導くのは、なるべく遠くに胞子を飛ばすためでしょう。(右)シシウドで吸蜜するキンモンガ(チョウ目 アゲハモドキガ科)。高原や里山から都市部まで普通に見られます。長野市は37度とかで、高原のあちこちをウロウロしながら温泉に入って夕方帰宅しました。

(左)前日、長男のところへ行く時に信州新町道の駅でジビエなどを購入。満車で蕎麦屋は行列なのであさひや食堂へ。馬肉うどんと茶碗カレーのセット。上田駅前の中村屋などに比べると私には甘すぎるのですが美味です。子供の頃、祖母に連れられて長野に行くと、昼食は丸光デパートの五目中華そばかどこかの店の馬肉うどんでした。当時の信州では肉うどんというと馬肉うどんのことでした。小麦はもちろん伊賀筑後オレゴン。通称いがちく。(右)長男の家での晩餐。下の右からサフォークラム。マトン。鹿肉。左上へとうもろこしの左に蕎麦粉にねぎ味噌を挟んだおやき。上はやたら漬を細かく刻んで薄焼きにしたもの。レジの前で売っていますがこれが人気で売り切れ必至。作っているのはお爺さん。どんな方でしょう。二つとも大岡道の駅で。その上は安曇野で人気の餃子。右へなめこの味噌汁。白ナスと玉葱。下は西山大豆の枝豆。これが超絶美味。その下は信州名物鶏の山賊焼き。長野ではジンギスカンは鉄板で焼きますが、なぜか我が家では父がこういうジンギスカン鍋を買ってきてこれで焼いていました。私の成長期は、マトンと秋刀魚と鯨と大豆が重要なタンパク源でした。肉は食べ切れず、長男が次男とのオートキャンプに持っていきました。

北村喜代松(三代正信)は、天保元(1830)~明治39(1906)越後市振村(現糸魚川市)の宮大工建部家に生まれました。北信から上越中越、富山の朝日町や宇奈月などに多くの作品が現存します。有名なところでは、真田信之の御霊屋がある松代の長国寺、鬼無里の祭り屋台と神楽など。

終戦記念日:世界から戦争がなくならないのは、戦争によって儲かる輩がいるからです。欧米列強の軍需産業は莫大なものです。特にアメリカのそれは公共事業のレベル。死の商人達は戦争を必要としているのです。自分達は絶対安全地帯にいて。そして、たった1%の人間が、世界の富の8割以上を独占している異常さ。5Gとコロナウィルスとビルゲイツ等。平和は99%の人類が願う、叶えなければならない悲願なのです。それに忖度する腐敗政治家や経済人を許してはいけません。いかなる戦争にも正当性はありません。絶対悪です。

 『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

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