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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

「河中島合戰圖」武田の軍学書『甲陽軍鑑』編者、小幡景憲彩色。江戸時代に描かれた川中島合戦図色々。『長野電鉄沿線温泉名所案内』吉田初三郎(妻女山里山通信)

2023-12-02 | 歴史・地理・雑学
 川中島の戦い以降、江戸時代になってたくさんの絵図が描かれました。その多くは第四次川中島合戦の上杉軍と武田軍の布陣図です。それらを紹介します。歴史を年号や小難しい文章でなく、絵図という分かりやすいビジュアルで見るということの楽しさを知って欲しいと思います。そして興味を持ったら、歴史書や史料を読むといいと思います。特に川中島の戦いは第一級史料がなく、幕府奪取とも無関係だったのでまともな歴史家は研究対象としないとまでいわれていました。第一級史料がないのは、ひとつには豊臣秀吉の国替えで善光寺平の土豪が全ていなくなったことや、松代藩が支配するまで多くの藩主が変わり移住者も多く歴史資料の保存がなされなかったということがあります。善光寺平の人は日本のギリシャ人とかいわれて議論好きですが、あちこちから集まった人々が意思疎通するには話し合うしかなかったのでしょう。
まあそれが行き過ぎて「俺に言わせりゃあ〜」とか、誰も聞いてないよの自説語りの人が増えたのも事実ですが(笑)。

「河中島合戰圖」小幡景憲彩色。武田の軍学書『甲陽軍鑑』の編者。斎場山南の陣場平に陣小屋が七棟建てられた図が描かれています。かなり大雑把な絵ですが、それでも大体の地名は当てはめることができます。陣場平の北に赤坂山(現妻女山)、左に斎場山(旧妻女山)の尾根。上杉軍は赤で、武田軍は白で描かれています。上杉謙信は、短い布陣でも必ず陣城を構築したといわれています。築城前には、「乱取り」といって麓の寺社や家屋を壊して建築材料や食料を得ていました。
 合戦後50年位(1610年頃:江戸時代初期)に描かれた絵ですから布陣の位置の正確な描写は無理としても、その内容はかなり正確かも知れません。小幡景憲の祖父虎盛と叔父光盛は、海津城で春日虎綱の副将を務めました。そういう経緯から景憲は『甲陽軍鑑』原本を入手しやすい立場にいたということでもあり、実際に合戦当時の話を聞いていたのではないかと思われます。数ある川中島合戦戦国絵図の中でも最も信憑性の高い一点だと思います。この絵図は、東北大学狩野文庫に所蔵されているもので掲載の許可を得ています。
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 ここからは江戸時代に描かれた主に土産物の川中島合戦図を紹介します。時代は滑稽本『東海道中膝栗毛』十返舎一九が出版され大好評を博し(1802〜1814年)、一般庶民にも旅ブームが起きました。善光寺参りも盛んになり、川中島合戦絵図が土産物として飛ぶように売れた時代です。この中にもそういう絵図が含まれていると思います。土産物の絵図のサイズは意外と大きく、わら半紙の2倍、B2ぐらいあります。掲載は順不同です。

「河中島古戰場圖」一鋪 寫本 榎田良長彩色。どういう人物か不明。南が上になっているので180度回転させると地形図と同じになります。ということで回転してみました。北に飯縄山。犀川、南へ千曲川、斎場山(妻女山)と右の千曲川脇の黄色い海津城が分かると思います。茶臼山に武田軍が描かれていることから物語性の非常に高い絵図です。左下の赤い線は、武田軍が下りてきたという猿ヶ馬場峠からの善光寺道。この道は、武田信玄の命で配下の馬場美濃守によって開発整備されたものです。第四次川中島の戦いではここを下り、塩崎城や長谷観音に布陣したと考えられます。そして、信玄は間者を斎場山へ送り対岸の横田城を本陣とし、雨の宮の渡しから広瀬の渡しまでずらっと兵を並べたと伝わっています。ただ下から攻めるわけにもいかず作戦を練り直すために全軍を海津城に入れてしまいました。
 この海津城の形は大坂冬の陣の真田丸に非常によく似ています。突出した曲輪(郭)が丸いことから真田丸と呼ばれ色々な絵図でも半円形に描かれているのですが、発掘調査やレーダーによる探索で実際は台形であると判明しました。

 斎場山への上杉謙信布陣図が別にあります。「川中島謙信陳捕ノ圖」これは南が上です。分かる限りの地名を書き込んでみました。わりと正確な描写であることが分かります。妻女山という名は戦国時代にはありません。斎場山です(誤って西条山と)。妻女山は江戸幕府の命令で作られた正保4年(1647)年の「正保御国絵図」には妻女山と記されています。慶長9年(1604)の「慶長国絵図」では信州は現存しません。赤坂山の下に蛇池がありますが、千曲川旧流の跡です。戦国時代はここにぶつかって流れていたのです。そのため斎場山は天然の要害に囲まれていたというわけです。蛇池は、高速ができるまでありました。

 千曲川の堤防上から斎場山を撮影したパノラマカット。上の絵図と当てはめて見比べると分かると思います。鳥が翼を広げた様な山域や麓にたくさんの兵が布陣していたわけです。陣場平は長坂峠の300mほど向こう側なので見えません。

「川中島圖」折 一枚 寫本 島津定桓 原本 弘化三年圖(1846年)(彩色本):狩野文庫。これも上が南です。地図は上が北という決まりはこの頃はありませんでした。非常に稚拙な絵ですが、千曲川の旧河道が点線で妻女山や松代城の脇に描かれています。

「信州河中島合戰圖」信州河中島合戰圖 一鋪 寫本 明和九年(1772年)片岡長候寫(彩色):狩野文庫。赤が上杉軍で黒が武田軍です。赤備えといったら武田、真田だと思うのですが、小幡景憲の絵図といいそういうことに無頓着なのが笑えます。川中島での両軍の布陣や妻女山への武田軍の布陣が詳しく書かれています。斎場山は西条山と書かれています。古城清野は鞍骨城のことなので、西条山(斎場山)がその東に描かれているので間違っています。斎場山と西条山を取り違えています。こういう間違いは江戸時代からあったという証明です。片岡長候寫は土地勘が無い人なのでしょう。

「信州川中島古戰場」 一鋪 寫本 杉山憲長寫(彩色):狩野文庫。これはまた本当に下手な絵図ですね。これも斎場山と西条山を間違えています。戦国時代は口述筆記も多いので音が合っていれば漢字はどうでもよかったのです。ただ当地には西条山(にしじょうやま)と呼ばれる山域があったことで、とんでもない間違いがいくつも生まれました。真田家の史書「*眞武内傳附録(一)川中島合戦謙信妻女山備立覺」には、「甲陽軍鑑に妻女山を西條山と書すは誤也、山も異也。」と書かれています。
 *「眞武内傳」竹内軌定著。松代藩主真田家歴代の系譜および事績を記載。正編5巻が享保 16 (1731) 年に、付録4巻がのちにでき異本もある。幸隆・昌幸・信之・幸村などの記述が詳細。

「信州川中島合戰之圖」(合戰圖叢三五枚之内) 六鋪 寫本:狩野文庫。この絵図に至ってはもう方角も滅茶苦茶です。上の東と書いてある方が南です。合戦絵図の中でもかなり粗悪なものです。斎場山麓の岩野村は上野村、土口村は出口村、屋代は八代と書かれていますが、こう書いたことがあったのは事実です。斎野(いわいの)村→上野(うわの)村→岩野村と変遷して行きました。斎野は「信濃宝鑑」などに記載がありますが、斎場山が元です。

「信州川中島合戰圖」一鋪 寫本:狩野文庫。これも上が南です。あちこちにびっしりと物語が書かれています。茶磨山(茶臼山)布陣が出てくるので、江戸時代後期の『甲越信戦録』を元にした話かと思われます。拡大してひとつひとつ読み解くと面白いと思います。

「甲越 川中島合戦陣取地理細見図」仁龍堂花川真助 信濃善光寺。善光寺参り土産として売られたもの。出典:「川中島の戦」小林計一郎著。地元で作られたものなので赤坂山(現妻女山)と斎場山(旧妻女山)がきちんと区別されて描かれています。川中島の布陣は、上杉軍が黒、武田軍が白枠で描かれています。千曲川の犬ケ瀬、十二ケ瀬、猫ケ瀬が描かれているのも地元ならでは。右下にちゃんと凡例があります。

「信州川中島合戰陣取畧繪圖」:臨江齋画 更級郡北原村(長野市川中島町):松屋栄助 妙高の関山神社拝殿に奉納されたものを撮影。善光寺参りの土産として買ったものを奉納したのでしょう。
「信州川中島合戰陣取畧繪圖」:南喬画 更級郡北原村:松屋栄助再板 手持ちの資料より。
 これらも上と同じ様に土産物と思われます。川中島の戦いは、歌舞伎や人形浄瑠璃の演目となり大人気を博しました。絵巻や浮世絵も数々。善光寺参りの際には八幡原や妻女山、海津城のある松代を訪れる旅人も多かったのでしょう。

『長野電鉄沿線温泉名所案内(部分)』吉田初三郎 長野電鉄(株)昭和5年発行。「大正広重」と呼ばれた鳥瞰図で有名な画家。昭和5年の長野駅や川中島古戦場の八幡原など当時の様子が興味深い。海津城址に噴水があったことが描かれています。遠く下関まで描かれていますが、この手法は葛飾北斎が江戸時代に既に確立しています。長野県立歴史館で吉田初三郎展が開かれた折に買い求めました。長野電鉄の屋代駅・長野駅から木島駅・湯田中駅までの路線が描かれ、沿線の旧所名跡や温泉・スキー場などの観光地が記されています。

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本の概要は、こちらの記事を御覧ください

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