★忍さんと歌穂さん
ある日のことだった。画家さんは、アトリエで、スケッチブックの素描をもとに、詩人さんの肖像画を描いていた。
ほんとにおまえ、予想通りになったな。カンヴァスに筆を走らせながら、画家さんは絵の中の詩人さんに心の中で声をかける。
学生のときから、なんとなくよわっちいやつだと思ってたけど、こんなんでいけるのかって、思うことが何度もあったけど、ほんとに、こんなに早く死んじまうとは思わなかった。
聞いたところによると、鳥音渡の第2詩集の売れ行きはかなりいいそうだ。本人が死んでしまっていると言うことも、人の興味をひくらしい。鳥音渡の詩は生きている鉱物の光のように、人の心に静かにしみ込んでゆく。
おまえが言いたかったことが、今ならわかるよ。画家さんは絵の中の詩人さんの顔を、愛おしそうに見つめた。
そのとき、横の方から、がちゃんと何かが割れる音がした。振り向くと、アトリエのドアのところに歌穂さんが呆然と立って、画家さんを見つめ、震えている。その足元ではコーヒーのカップが割れ、黒い液体が床を濡らしていた。画家さんが何かを言おうとする前に、歌穂さんの目からぽろぽろ涙がこぼれだした。画家さんはあわてて立ち上がる。
「どうした、なんかあったのか?」
画家さんは歌穂さんにやさしく声をかけながら近寄って行った。すると歌穂さんは顔を覆って泣きながら言った。
「忍さん、やっぱり渡さんのことが好きなのね」
「はあ? なんだ?」
「竹下さんが言ってたの。忍さんは女の人より、男の人の方が好きで、渡さんは恋人だったんだって」
竹下さんとは、画家さんの絵を扱ってくれている画廊の女主人のことである。画家さんは驚いて、目を丸くした。あのばばあ、何を女房にふきこみやがったんだ!?
画家さんはしばし呆然として口がきけなかった。歌穂さんは顔を覆ってさめざめと泣いている。そのお腹は少し膨らんでいて、中には、五か月になる子供がいた。
「わ、わたしと結婚したのも、わたしが渡さんに少し似てるからだって…」
ぶっ、と画家さんはつい、吹き出してしまった。この、どあほう、と叫びそうになったが、相手が女性なのでもちろん飲み込んだ。
「あのなあ、それは嘘だ。単なるうわさだ。冗談じゃねえ。俺はそういう趣味はない。女房の方がいいのにきまってるだろう。おまけにこいつはとんでもない馬鹿なんだぞ!」
画家さんは詩人さんの絵を指さしながら言った。そして泣いている歌穂さんの方に近寄って行って、お腹をつぶさないように、やさしく抱きしめた。
そう。画家さんはこういうことができる男なのだ。
小さな自分の妻を抱いて、画家さんは言うのだ。
「おまえが一番大事なのにきまってるだろう。友達は友達、女房は女房で全然違うんだ。おなかの子供のこともあるし、いらんことで悩むな」
歌穂さんは、暖かい忍さんの胸の中で、幸福をかみしめざるを得なかった。こんないい人と結婚していいのかとさえ、思った。
「ごめんなさい。忍さん」気持ちが晴れたのか、歌穂さんは画家さんの胸から離れ、涙をふいて、言った。
やれやれ、と画家さんはため息をついた。歌穂さんはこぼれたコーヒーと割れたカップを片づけると、うれしそうに買い物に出かけていった。
(ふふ)
ふと、画家さんの耳に、誰かが笑ったような声が聞こえた。画家さんは、カンヴァスの中の詩人さんの顔を振り向き、言った。
「おまえ、さっき笑わなかったか?」
(つづく)