編集者との打ち合わせ等が終わり、什が自分の町の自分の家に帰ってきたのは、彼が家を出てから三日後のことだった。朝一番の列車に乗ることができたので、割合に早く家に着くことができた。裏口の鍵を開け、中に入ると、すぐに台所があり、母が朝食を終えたまま、おいてある食器がテーブルの上に並んでいる。什は疲れてはいたが、特に気にはせず、自然にその食器類を洗い場にもっていき、洗って片づけた。
台所の天井を見あげ、彼は深々と安堵の息をついた。家に帰ってきて、本当にほっとしている自分がいる。什はだんだんと、自分が、自分の家のある町の外に出ることが難しくなってきているような気がしていた。
慣れ親しんだ家の匂いを胸に吸いながら、今度の詩集が、もしかしたら最後の詩集になるかもしれない、と彼は思った。美しい暗喩の産着に包まれた赤子の正体は、今、誰にもわからないだろう。いや、たとえわかる人がいたとして、今のこの世界でどういう行動がとれようか。みな自由でいるように見えて、がっしりと強い鉄の檻に囲まれているのだ。
「清らかな詩ですねえ。ひねりにひねっているが、リズムがいい。あなたにしては、ずいぶんと難解だが」と、出版社の編集員は什の詩を読みながら言ったものだ。編集員は、什の持っていった原稿を読みながら、何か不思議な感慨に襲われているようだった。清らかなどと言われるのは初めてだが、什は素直にほめ言葉と受け取って、「ありがとうございます」と答えた。だが、内部に現れる、かすかなさみしさを隠すことができなかった。今は誰にもわからない。この自分の胸にあるものが何なのか。だが、これがいつか、人々の前に真実を見せるときが、きっとやってくる。これは、切り札なのだ。いや違う。最終兵器だ。
白雪のごとく麗しき駿馬の
風に踊るそのたてがみを見よ
それはあなた自身である
星々の祝福の金の音の鳴るを
その貝の耳を開きて聞くがよい
私とはすばらしいものである
すべては愛である
神が すべての愛が
待ち焦がれていたその時が
とうとうやってくる
人々よ 鍵を左に回しなさい
什は、詩集の中で最も気に入っている部分を、心の内部で暗唱した。ああそうとも。たとえ可能性が無に等しくとも、わたしはやっていく。すべての幸せのために。どんなに無駄な努力に見えようとも。それがわたしなのだから。
服を着替えると、すぐさま什は書斎に向かった。書斎の戸を開けて中に入ると、何かがつま先にぶつかり、彼は何気なく下を見た。そして唖然と目を見開いた。最初、それは蜘蛛かナナフシのような虫の一種ではないかと思った。しかしそれは虫ではなかった。什は、数分ほど、息をするのを忘れて、その情景を見ていた。
…小人だ。小人が、いる。
なんとそこには、何百、いや何千という小さな人間が、書斎の床の上にひしめきあって、きゅうきゅうと不思議な言葉でしゃべりながら、一斉に什を見上げて騒いでいるのだ。什は目をぱちぱちさせ、何度も目を拭いた。だが小人の集団は消えなかった。身長は十センチくらいだろうか。手も足も頭もある。確かに人間の姿をしている。男も女も若者も老人もいた。もちろん顔や髪や肌の色などもみなそれぞれに違う。什はふと、誰かに見られているような気がして、窓の外に見える青い空に目を向けた。青空には雲がひとひら流れており、そこに一瞬、不思議な顔が見えたような気がしたのだが、彼がそこに目をやるとほぼ同時に、それは空に溶けて消えてしまった。什は、再び下を見た。だが小人は消えていなかった。幻覚か、それとも今は眠っていて夢を見ているのか。とにかく今、書斎の床は小さな人でいっぱいだ。
「ドゥワーフじゃないな。リリパットだ」彼は自分を落ち着かせるため、少々冗談めかして言った。ガリヴァーみたいにならなければいいんだが、と思いながら、彼は「ごめんなさい。失礼します」と言ってゆっくりと足を動かし、小人たちを踏まないように気をつけながら、自分の机に向かった。小人たちは彼の足が降りるところをよけて、彼のゆく道を作ってくれた。そしてようやく自分の椅子に座って一息つくと、什は改めて、床の上にひしめく小人たちを見下ろした。
小人たちの声は、キュウキュウ、キイキイと鼠の鳴き声のように聞こえた。これは何の夢だ? 一体何の現象だ? 什は机の上に頬杖をつきながら、しばし考えた。四六時中、夢のような詩など書いてると、気がおかしくなりすぎて、しまいにこんなことになるのかとも、思った。とにかく、小人たちは、什の部屋に満ち満ちている。まるで、球場に集まった大勢の人々を空から見ているようだとも、彼は思った。
と、小人たちが急に高く口笛を吹き、大きな歓声を上げた。見ると、小人たちの中では、特に背が高く体格も大きな小人が、什の方に向かって歩いてくる。それはどこかの王様のような立派な毛皮のマントを引きずり、頭に小さな王冠をかぶり、黒い髪も髭も床に届くほどたっぷりと伸ばしてずいぶんと立派な様子に見えるのだが、よく見るとマントは灰やカビにまみれてずいぶんと汚くなっており、髪も髭もだらしなくもつれ合ってモップのように床のゴミをつけていた。顔も、近くから見ると、傷やアザだらけで、片目はつぶれており、たいそう醜い相をしていた。
黒髭の小人は什の足もとまできて、きい、と声を上げた。什はその小人の顔が、悲哀の黒い影に深く染まっているのを見て、目を細めた。まるで、腐った王様というような姿をした、黒髭の小人は、鼠のような声でもう一度、きい、と什に何事かを問いかけた。言葉の意味はわからなかった。だがその王を見ていると、什の胸に、どうしようもない憐憫の情が現れた。何か自分にできることをやってやらなければたまらないと、彼は思った。彼はしばしの間考え、黒髭の小人に言った。
「すばらしい人よ。美しい人よ。あなたには愛する自由がある。なぜならあなたの手はあなたのもの。あなたの足はあなたのもの。あなたの心はあなたのもの。あなたは、あなたのもの。あなたは美しい。なぜならあなたはあなたというものを使い、愛のためにすべてのことをやっていくことができる、すばらしいものだからだ」
什は即興の詩でその小人に語りかけてみた。するとそのとたん、その小人は姿を変えた。汚いマントは消え、冠も黒い髪も髭もさっぱりと消えて、そこに質素だが清潔できちんとした服を着た、心床しい紳士のような小人が現れた。顔の傷やあざなどもすっかり消えていた。つぶれた目もなおっていた。小人たちの群れから感動の声が上がった。
それから、什の即興の詩は、まるで不思議なウイルスが感染していくかのように、あるいは火が野を燃え広がっていくかのように、書斎にいた小人たちの間に伝わって行った。それと同時に、小人たちはどんどん姿を変えていった。皆、美しく、さっぱりとした姿に変わって行った。中には背を向けて逃げていく小人もいたが、あれよあれよと言う間に、その詩のウイルスは書斎にいた小人たち全員に広がっていったのだ。
やがて、美しい姿になった小人たちはあちこちで歓喜の踊りを踊り、幸福の歌を歌い始めた。什はただ椅子に座って茫然とそれを見ていた。ふと彼は、何かに頭を、かつんと叩かれたような気がして、無意識のうちにまた窓の方を見た。空から誰かが見ているような気がした。それと同時に、什は自分の周りの空気が、一瞬のうちにまるごと入れ換わったような感覚に襲われた。それはまるで、自分が生きている物語の中の一ページを、ひらりとめくられ、場面が急に変わったかのような感触だった。そして什が再び床を振り向くと、もうどこにも、小人の姿はなかった。
什は、いつもの様子に戻った書斎を茫然と見まわした。やはり幻覚だったのか? 自分の気が少しおかしいのは、前から知ってはいるが。彼は混乱したまま机に向かい、引き出しから日記代わりの小さなノートを取り出して開き、そこにまず、「小人を見た」と一言だけ書いた。とにかく、見たのは確かだ。自分が即興で歌った詩も、たぶんそのせいで起こったことも、覚えている。何が何だか、さっぱりわからない。だが、この経験は、多分自分にとって何かの意味を持つのだろう。今は何もわからないが、いつか、何かがわかる日が来るにちがいない。什はそう思うことにして、さっき起こった不思議な出来事を、ノートに細かく書いておくことにした。
るみが家を訪ねてきたのは、その日の午後のことだった。チャイムが鳴ったので、玄関に出て扉を開けると、高校の制服を着たるみが、少しうつむき気味にそこに立っていた。
「やあ、いらっしゃい」と什はるみに言った。るみは玄関の扉のすぐ前に立ち、斜め下を見ながら、もじもじしている。るみが何も言わないので、什は少し戸惑いつつ、いつもの優しい声で、彼女に言った。
「どうしたの。何か用があるんじゃないのかい?」
すると、るみはますますうつむき、涙を一粒、足元に落とした。什は困ってしまった。女の子と言うのは時々、男にはまるで理解できないものになってしまうのだ。什は何を言ったらいいかわからなくなり、しばしるみの様子を黙って見守っていた。やがて、るみは少しすねたような声で言った。
「什さん、どこにいってたの? 昨日来たけど、いなかったじゃない」
「…ああ、その、今度新しい詩集を出すので、出版社の方に行ってたんだよ。ほかにも取材したいところがいくつかあって、三日ほど留守にしてたんだ」
「わたし、什さんがいなくなるの、いやなの」
るみは突然、半分泣きそうな声で言った。什はびっくりした。前にも似たようなことを言われたことがあるが、これは、どう解したらいいんだろう? 什はしばらく頭の中を検索して答えを探してみたが、それは見つからなかった。彼が無言のまま茫然とるみを見ていると、るみは涙顔をあげて、什をまっすぐに見つめて、言った。
「わたし、昨日十六になったの。十六になったら、結婚できるよね」
「は?」什は間抜けな声で言った。
「約束したでしょ。大きくなったら、結婚しようって」
「え…、あ?…」
什は目をまるまると見開いた。驚きのあまり、眼窩から眼球が転げ落ちるのではないかと思った。あの、るみがまだ小学生だった頃の約束、まだ有効なのか?
什は呆気にとられて、しばし何も言えなかった。るみはどうやら本気のようだ。真剣な目で什の顔を見つめている。これは、どうしたらいいんだろう。什は考えようとしたが、何をどうしたらいいか、まるで思考が動かなかった。しっかりしろ!と自分の心の中で声がした。…そうだ。とにかく、ここは大人として、なんとかしなければならない。まだ若すぎる彼女の心を傷つけないように、何とかうまく切り抜ける方法はないものか、什は必死に考えた。そしてようやく言った。「るみちゃん、十六では早すぎるよ。君が学校を卒業して、大人になってからにしよう、結婚は」什はそれで何とかこの場をしのごうとしたのだが、そう言ってしまった後で、ずぶりと何かの罠に深くはまりこんでしまったような気がした。
「…十六じゃ、まだ若すぎる?」るみは言った。
「そうだよ。高校は卒業したほうがいい。それに、就職もちゃんとして、社会勉強もしておいたほうがいい」什は必死に言った。るみは、最初は不満がありそうだったが、やがて什の言うことももっともだと納得して、小さな涙をふき、笑顔を見せた。
るみは、什から一冊詩集を借りると、また元気に手を振りながら帰って行った。るみを見送った什は、これから何年かのうちに、どうか彼女が例の約束を忘れてくれるようにと、神に願った。
「Confucius!」
書斎に戻ると、什は椅子に座りながら西洋風に嘆いてみた。全く、女の子と小人と言うのは、わけがわからない、と彼は言いたかったのだ。
とんでもない一日だと深々とため息をつきつつ、彼はふと思った。そう言えば、「侏儒」というのは、小人という意味ではなかったろうか。彼は椅子から腰を上げて書棚に向かい、分厚い辞書を開いた。職業柄、気になる言葉にぶつかるとどうしても調べたくなる。
辞書を開くのは好きだ。まるでそこに、色とりどりのさざれ石が魚のように生きているような気がする。書物の中の言葉の世界に入っていくと、もう什は小人のこともるみのことも忘れていた。