世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

2012-09-06 07:40:11 | 月の世の物語・余編

「ええ、今回は病死、それも七十三歳で独居死か…」と、書類を読みながら、竪琴弾きは川辺を歩いていました。薄藍色の空には蜜柑のような月がかかり、風の中にはその甘くもすがしい香りが漂ってきそうでした。「遺体を見つけてもらうまで、相当かかるみたいだな。これでいくらかの浄化にはなるけれど。ほんとに、貯金するなら、別のものを貯金すればいいものを」竪琴弾きは言いながら、ほう、と息を吐き、書類を消しました。

川幅は広く、向こう岸が灰色の霧に覆われて見えないので、見ようによっては川は海のようにも見えました。竪琴弾きは知っていました。こちらの岸は、月も空も美しく、川辺の草原もよい香りのする、とてもきれいなところですが、向こう岸は、暗い霧に覆われ、空気にかすかな毒が混ざり、でこぼこの荒れ地がどこまでも広がっていて、小石をいっぱい積みあげた小山がたくさんあることを。

やがて竪琴弾きは、川辺に小さな岩を見つけると、ちょうどいいと思い、立ち止まりました。「ここらへんで網を張っておいたらいいだろう」そう言って竪琴弾きは、竪琴をぽろんと鳴らし、歌を一節歌って、川の上に、こっちの岸からあっちの岸まで続く、橋のような網を張ったのです。

岩の上に座って、竪琴を鳴らしつつ小鳥と遊んでなどいると、突然、ひゃあ、という声が川の方から聞こえました。竪琴弾きが川の方を見ると、網に、年老いた女性がひとりひっかかっています。「たすけて、たあすけて、水が、水が!」女性は叫びつつ、網に必死につかまっていました。竪琴弾きは、岩から立ち上がり、大きな声をあげて、言いました。

「落ち着いて、大丈夫、沈んだりしませんよ!」すると、その声に気付いた女性は、いかにも意地の悪そうな顔を、竪琴弾きの方に向けました。竪琴弾きは、少し困ったように眉を寄せながらも、明るく女性に笑いかけて、言いました。「ひさしぶりですね、七十年ぶりかな?」女性は網にすがりつきながら、やっと気ついたように目を見張り、言いました。
「ああ!あんたあ、い、いつもの…。と、とと、いうことは…」
「ええ、そうです。今から二十分ほど前ですか。あなたは居間で心臓発作を起こして倒れ、そのまま死んだんです」
女性は、網をたぐりながら、竪琴弾きのいる岸に向かって来ようとしました。しかし竪琴弾きはそれを止め、言いました。

「だめです。こちらの岸に来ては。その網につかまっていてください。このまま、お話しましょう。ぼくの声は聞こえますね!」
「なによ、なんでだめなのよ!」老女が目をとがらせていうと、竪琴弾きはまた岩に座り、竪琴を鳴らして書類を出しました。

「…生まれる前に、少しのことでも積もり積もると大きくなってくると、何度も言ったはずですが、またやりましたね。今度は水ですか。川の水の中を流れてきたのも、そのせいですよ」竪琴弾きが言っている間に、女性は網を手繰って、竪琴弾きのいる岸に少し近付いてきました。そして足元に砂や石の感触を感じるところまで来ましたが、それ以上はどうしても進めず、女性は悔しそうに「畜生!」と汚い言葉を言いました。竪琴弾きは、清めの呪文を唱えたあと、厳しく女性を見て言いました。「あなたは生前、役所勤めをしていましたが、役所での自分の立場を利用して書類を操作し、自分の家の水道料金を、他人の家に押し付けてずっと支払わせていましたね」
それを聞いた女性は、口をとがらせて目をむき、女性とは思えないとても醜い表情を見せました。
「何よ。それが何だっての。たかが月に二百か三百くらいのものじゃない。これくらいのことはみんなやってるわよ」
「はあ、まあねえ」と竪琴弾きは、首を傾けながら、呆れたような顔をしました。

「なんといいますか。その、昔からですが、人は、他人にばれずに自分が得することをできるとなると、悪いことでも気軽にしてしまうってことは、まあほんとにたくさんあることですが…、悪いことは悪いことですから、ちゃんと支払わねばなりません。しかし今回は上手にやったものです。かえってほめたくなるほどだ。細部にも手を抜かず、実に巧みな操作をして、最後までばれなかった。まったく、努力するなら他のことを努力すればいいものを。おかげであなたの払わねばならない水道料金が膨れ上がりました。それを今から、向こう岸で、払ってもらわねばなりません。いいですか、もう一度言いますけど、どんな小さな罪でも、積もり積もると、大変なことになります。確か、この前の人生では、食堂で働いていて、毎日店からハム一切れを盗んでいましたね。あのときは、店主にばれて、即刻クビになってしまいましたが」
「それがどうしたのよ。いいじゃないの。残り物放っておいたって、腐るだけなんだから!」

竪琴弾きは、竪琴を鳴らして月を見あげ、清めの呪文を一息唱えました。根気と言うものがなければできないのは自分の仕事も同じだが、この女性には、その根気で負けてしまいそうだと、彼は思いました。竪琴弾きは少し悲しい目をすると、姿勢を正して、まっすぐに背骨を立て、教師のように厳しく女性に言いました。
「いいですか、何度もお教えしていますが、罪の償いというのは、生きているうちにもうやらされています。あなたは今回、離婚をして、子どもにも捨てられて、半生を一人で生きねばならなかったでしょう。それが、償いだったんですよ。もう、すっきりと言いますが、あなたが影でずるいことをするような人だったので、夫も子どもも、たいそうあなたを嫌っていたのです。あなたは誰にもばれていないと思っていたでしょうが、家族はあなたの役場での罪は知らなかったものの、あなたのその性質と申しますか、悪い癖を知っていたのです。だから、家族に見捨てられたのです。友人も家族もいない半生は、さびしかったでしょう」

竪琴弾きの言ったことは、女性の胸に響いたようでした。川の水の中でずぶぬれになっている彼女の目が、少しうるんだように見えました。女性はうつむき、網につかまったまま、竪琴弾きに背を向けて、しばらく何もいいませんでした。肩が少しふるえていたので、竪琴弾きは、ああ、泣いているのだなと思い、竪琴を鳴らして、やさしく愛を送ってあげました。すると突然女性は、竪琴弾きを振り向き、どなり散らすような声で言ったのです。

「なんだって、なんだって、こんなことんなるんだって、おもってたわよお、あたしゃ。つらかったよ。そりゃつらかったよ。誰もあたしに、いいことしてくれないんだもの。別にわるいことなんかしてないわよぉ。べつに、べつに、いいじゃないの。少し自分が得するくらい、なんでもないじゃない。ほかのひとだってやってたわよ。上の偉い人なんか、もっとすごいことやってるわよお。あたしがやったことなんて、なんでもないわよ。それってわるいわけ?なんでさ、なんでさ、なんでさあ!」

竪琴弾きは帽子を下げて目を隠し、少しの間、ただ黙っていました。竪琴弾きは女性の泣き顔を見つつ、口の端を歪め、少し考えたあと、ふうと息を吐き、少し声を低くして厳しく言いました。

「そういう風に、軽々しく人のものを盗る人がたくさんいるので、地球世界に物価高が起こり、人が生きることがとても難しくなるのです。たかが水道料金とあなたは思っているでしょうが、罪は軽くありませんよ。いいですか。なぜ人間が地球上で生きることが、苦しいのか。それはあなたのように、ずるいことで自分を得させるために、影で他人からものやお金を上手に盗む人が、本当にたくさんいるからなのです。ほとんどの人はばれていないと思っていますが、神はすべてをご存知です」

竪琴弾きは立ち上がりました。川の中にいる女性はまだ、不満がありそうに竪琴弾きを見つめています。竪琴弾きは、悲しげに目を細めて女性を見ました。そして言いました。「一応、仕事上、言わねばならないことを言います。あなたが、そうやって少しずつ人から盗んできて、重なってきた罪責数が出ています。八億三千二百というところです」
それを聞くと、女性は目を見開いて、びっくりした様子で叫びました。「ええ、うそ!あたしそんなにやってないわよ!」竪琴弾きは静かに答えました。
「前の人生と、前の前の人生と、前の前の前の人生の分もずいぶん残ってるんです。いつでもあなたは、他人から上手に少しずつ盗んできたので、それがこれだけたまったのです。これから全部、それを返してゆかねばなりません」
「いやよ!そんなの!あんなの悪いうちに入らないって言ってるじゃない!」

竪琴弾きはもう女性の言うことに耳を貸すのをやめました。「これから、三百年ほど、あなたは向こう岸で、荒れ地の小石を集めて、小石の山をいくつか作らねばなりません。小石で山が一つ完成すると、あなたの働いた量や学んだ度合いなどによって、山からお給金が出て来ます。しかしそのとき、必ず取立人があなたのところに行きますから、それで水道料金を払うようにしてください。言っておきますが、お金を持ち逃げしようとしたら、もう一段下の地獄に落ち、もっと辛い労働をしなければならなくなります」
「なんで、なんでよ!」と女性は叫びました。竪琴弾きは何も答えず、竪琴を高く鳴らしました。すると、網に引っ掛かっていた女性の姿は、パシャリと水音をたてて、そこから消えました。

竪琴弾きは遠見(とおみ)をして、霧に包まれた向こう岸を見ました。先ほどの女性が、もう、荒野を歩きながら、袋の中に小石を集めているのが、見えました。灰色の霧や、空気に混じっている妙な毒のせいで、彼女はしきりに咳をして、涙を流していました。
竪琴弾きは、川にかけた網を消すと、何も言わずに、竪琴を背に回し、そこから歩き始めました。そして少し胸に込み上げてくるものを感じ、それが感情の動きとなる前に、彼は自分を鎮め、小さな歌を歌ったのでした。

正しいものは正しく、美しいものは美しくなる。
愛を磨いた小さな蝶々を、野に放ちなさい、人々よ。
嵐の中に、何度濡れなければならないとしても、
灰の荒野に、何度倒れなければならないとしても、
あなたたちは幸福なのだ。


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