世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

2012-09-03 07:36:30 | 月の世の物語・余編

かすかに黄味をおびた、白いまっすぐな道を、彼は歩いていた。白緑の草むらがその道を縁取り、その向こうからはちろちろと水の流れる音が聞こえ、ときおり、こりり、と蛙の声が鳴った。

空気が澄んでいる。息をするのがここちよい。ああ、また夢を見ているのだな。と、什は思った。

「わが君」

後ろから呼ぶ声がしたので、什は振り向いた。するとそこに美しい女がいる。シタールと琵琶の間の子どものような、不思議な弦楽器を手に持ち、やさしく什に微笑みかけている。什は、おや?と思った。るみじゃないか。ずいぶんときれいだし、まるで敦煌の飛天のようなかっこうをしているが、るみにまちがいない。什が「る…」と言いかけた時、女の方が、先に言った。

「わが君、ご散策でございますか?」
すると什の口は、彼の思いとは別の思いに従って動いた。
「ええ、そうです。道を歩くのは楽しい。草の香り、蛙の声、水の流れ、木々を鳴らす風、みな美しい。人々は喜んでいるでしょうか」
「はい、それはもちろん。みな、幸せでございます」
什はそれは喜んで、女に微笑みかけ、少し頭を下げて彼女に挨拶をすると、くるりと背を向けて、また道を歩き出した。

什は白い道をまっすぐに歩き、国の縁にある小さな岬へと向かった。そこは月を浴びた白い砂がまるで金砂のように見える場所だった。そこから向こうは、黒い空間があるばかりで、何も見えない。ただ、見えない波がかすかに砂を洗う音が聞こえる。どこからかよい香りが漂ってきて、振り向いて空を見ると、普通の二十倍はありそうな大きな月が空にかかっている。この涼やかな香りは、あの月から吹いてくる風の香りのようだった。

彼は岬の突端に立った。風が一息、金の針のように耳をさした。什は、「ああ」と言った。そして、「そうですか」と言った。誰かが彼に声をかけ、何かの行動を呼びかけたのだ。彼はゆっくりと首を回して、周りに誰もいないのを確かめると、正面を向き、目を光らせた。

彼は誰もいないと思っていたが、近くの木立の影に、梅花の君がこっそりと隠れていたことには気づかなかった。梅花の君は、一瞬、王様の中から、炎のような薄紅の光を放つ大きな鳥のようなものが飛び出したかと思うと、暗闇の中に、ふっと消えていったのを見た。

しかし王様は、何事もなかったかのように、岬の突端でいつもの好きな歌を高らかに歌い、微笑みながら、また元来た道を帰っていった。途中、また梅花の君に出会った。王様は彼女の目が少し涙にうるんでいるのを見て、心配になり、「どうかなされましたか?」と言った。梅花の君はかぶりをふりながら、「なんでもございません。王様のお歌がすばらしく、胸に響いただけでございます」と言った。しかしそれがうそであることは、王様にはすぐにわかった。だが何も言わず、ただやさしく彼女に微笑みかけた。

薄紅の翼ある光るものが、透明な風に乗り、霧に覆われた白い空間を飛んでいた。ずいぶんと遠い、そして深い。だが清らかなもののにおいが、かすかに呼んでいる。翼のものは高度を少し下げ、風を従えてその呼び声を追って速度を上げた。次第に霧は消え、やがて、木も草もない岩だらけの灰色の連山が、空を刺すようにとがった峰を並べながら、壁のように長々と続いているのが、見えてきた。彼は流星のように、その連山に沿って飛んで行った。やがて、遠くに、灰色の山に囲まれた小さな盆地のようなところがあり、その真ん中に白く光る丸いものが見えた。それはこの灰色の世界に落ちてきた小さな月のようでもった。翼あるものは、翼を幾分縮めると、体勢を変えてゆっくりと速度をゆるめ、その地上に落ちた月から、少し離れたところに、そっと降り立った。

彼は、薄紅の翼を背にしまうと、その小さな月を見下ろした。近くから見るとそれは、白っぽい乾いた土を敷き詰めて固めた広場のようなところであった。だがこれを月と呼んでもよかろう。上を見あげても、藍色の空に月はなかった。月は人々への愛のためならば、喜んで自分を小さくして下に降りてくる。多分月は、人々のためにこのような形で、ここに降りてきたのだ。誰もこれが月だとは気がつくまい。月には人に踏まれることなどなんでもないことなのだ。ただ静かにそこにあり、かすかな光で歌いながら、人々の魂を清め続けている。

さて、その白い月の真ん中には、一本の焼け焦げた柱が立っており、その周りには真っ黒な炭になった薪の山があった。それを見て、彼は自分の体がずいぶんと大きく、白く光っていることに気づき、呪文を唱えて自分の体を人間のように小さくし、光を抑えた。そして、自分の足で歩き、その炭の山に向かって歩いていった。

すっかり冷え切った炭の山の奥から、小さな歌が聞こえた。それは少女の声だった。小さくも清らかな声で彼女は「神に御栄あれ、御栄あれ」と繰り返し歌っていた。彼は微笑んだ。そして言った。

「少女よ、立ちなさい」

すると、黒い炭の山がからりと動き、その中から、焼け焦げたされこうべが顔を出したと思うと、風が白い灰を一瞬のうちにその周りに巻き集めて、いつしかそこに金髪の少女の姿があった。炭の山の中に立った少女は目を閉じ、とめどなく涙を流していた。その頬や手や裾の長い服のあちこちに、炎に焼け焦げた跡がある。少女はまだ「御栄あれ、御栄あれ…」と小さな声で繰り返していた。彼は言った。

「目を開きなさい。少女よ」

すると涼しい風が、彼女の頬の涙をふき、少女は目を開けた。そして目の前にいる人を見て、目をまるまると見開いて驚き、慌てて炭の山から出てきて、月の広場の上にひざまずき、胸の前に指を組んだ。少女は頭を下げ、言った。

「お許しください。わたしは罪深きものです。己の深き罪の償いのため、こうして何度も灰になるまで焼かれねばなりません。神へのおわびのため、わたしが苦しめてきた人々の悲哀を清めるため、こうして苦しまねばならない、愚か者です」

その声を聞いて、彼は微笑んだ。愛が胸の中で花のように咲き、すべてのことをやってやろう、と彼は彼女のために心の中でささやいた。彼は言った。

「少女よ。あなたは今日、神の御前に呼ばれた。だからわたしは、こうしてあなたのもとにやってきた。少女よ、あなたは愚か者ではない。あなたは美しいものである。それをこれから、教えてあげよう。さあ、立ってこちらへきなさい」

少女は言われるまま立ち上がり、こわごわと足を動かしながら、その人のところに歩いて行った。近くから見るその人は、なんとも深く青い目をしていた。ああ、知っている。この人を。誰もが知らぬはずはない。忘れられるはずがない。少女の胸が震え、目に涙が再び流れた。

「ここに座りなさい」彼がいうと、少女は、「はい」と言って、彼のすぐ前にひざまずいて座った。手は自然に指を組み、祈りの形をとった。

「これから、わたしのいうとおりにしなさい」と彼は言った。少女はただ「はい」と言った。彼は少しの間、不思議な呪文を唱え、光を呼んだ。
「もうあなたは、十分に準備が整っている。それゆえにわたしはあなたにいう。さあ、まずは、一頭の立派な白い馬が、あなたの中にいると思いなさい」
「はい」
「あなたは今、その白い馬のそばに立っています。それは千里を疲れなく走る美しい駿馬です。雪のように白く、清らかな優しい愛の心を持っている。あなたは今まで、そこに白い馬がいることを知らなかった。だが今はそれを知っている。さあ今、その馬に乗りなさい」
「はい」
「乗りましたか?」
「はい」

少女は、心の中で、白い馬に乗った自分の姿を思い描いた。彼は続けた。
「その白い馬は、あなた自身です。あなたは、馬の真ん中に乗り、馬を操ることができます。さあ、馬に乗って馬を操るように、自分の手を自分の心で操り、その手を動かしてみなさい。そして全身を、自分自身として感じてみなさい」
「はい」
少女は言われた通り、自分の心で、自分の手を動かした。それは遠い昔に踊ったことのある祭りの踊りの所作に似ていた。そして自分を動かしている自分を感じた。そのときふと、何か、自分が空気の壁をすっと抜けたような、不思議な風を感じたような気がした。自分の中で、自分と自分がまっすぐに重なった。彼女は胸の中に起こった感動につき動かされ、周りを見た。遠い連山の風景、所々に生えている、耐乾燥植物。地に降りて来た月のような白い広場、真ん中に立った焼け焦げた柱。風景が今までと違い、何故にか、薄紙を一枚はがしたかのように、くっきりと見える。「ああ」と彼女は言った。見つけたからだ。自分が、今、ここにいることを。ここにいて、風景を見ていることを。

「ああ…」と、また彼女は言った。彼は微笑み、「わかりましたか?」と言った。
「あ…、あ…、あ…」少女は微笑む彼の顔を見あげながら、自分の全身に自分が満ちていくのを感じていた。わたし、わたし、わたしだ! 彼女は胸の中で叫んだ。

「あなたは、あなたというものです。『私』というものです。『私』とは、雪のように白い駿馬のごとく美しく、すばらしいものです。あなたはそれゆえに美しい。それゆえにすばらしい。あなたは、あなたという、すばらしい『自分』を持っている。それを、自分の自分と言います。すばらしい宝です」

その人の言葉は溶けるように少女の中に入って行った。と、突然、天から光の星が落ちてきたかのように、少女の全身を信じられぬ歓喜が貫いた。少女はあまりのことに、その場にうずくまり、頭を押さえながらがくがくと震えた。ほとばしりそうな叫びを懸命にこらえた。底知れぬ歓喜に魂が割れんばかりに震えていた。なんという幸せ。なんという喜び。これが、これが、これが…!

「わかりましたか、それが本当の幸いです。自分が、自分であること。すべてはみな、最初から持っていたのです。何もかもは、すでに与えられていたのです。少女よ。伝えなさい。苦しみの中にも、人々に伝えなさい。人々は今まで、双子のように自分を裂いて生きてきた。そして、本当の自分ではない自分をずっと生きてきた。それゆえに、あまりにも生きることが苦しかった。あらゆる不幸はここから起こったのです。けれどももう、あなたは、あなたになった。たったひとりの、あなたになった。少女よ、この世界には愛以外のものは存在しない。すべては、素晴らしい愛の存在のみであり、真実の幸福はその中にこそあると、伝えなさい」と彼は言った。少女は歓喜の中で、しばし答えることができず、涙で頬をうるおしながら、ただ何度もうなずいた。少女の頬や手にあった火傷のあとはいつしかきれいに消えて、服も新しいものになっていた。それゆえにか、彼女は前よりも一層美しくなって見えた。

「白雪のごとく麗しき駿馬の風に踊るたてがみを見よ。それはあなた自身である。星々の祝福の金の音の鳴るを、その貝の耳を開きて聞くがよい。私とはすばらしいものである。すべては愛である。神が、すべての愛が、待ち焦がれていたその時が、とうとうやってくる。人々よ、鍵を左に回しなさい」

彼は謎のような詩を歌った。その詩は彼女の心の奥に、光る記憶として結晶した。彼女はもうすべてがわかっていた。

わたしが、「私」と、いうものであるということを。そしてそれは、このうえなく美しいものであるということを。そして私は私であるゆえに、愛そのものであるゆえに、全てを耐え、全てを愛のためにやっていく、よきものであるということを。

なんとすばらしいものを、わたしは持っていたのか!少女は真の幸福を確かにつかみ、それを胸深く抱きしめた。愛がとめどなく自分の奥から生まれてくるのを感じていた。ああ、どんなに苦しくとも、わたしはやっていきたい。みなのために、すべての愛のために、やっていきたい。私とは、こんなにも美しいものだったのか!

彼は幸福に震え泣いている彼女に、静かな声で言った。

「アルファ。これは印です。ここからあなたが始まります。すべてのことを、あなたは、あなたによって、やっていきなさい」

すると少女は、額をまっすぐに彼に向けて、手を組んで礼儀を整え、美しくも確かな自分の声でくっきりと言ったのだ。

「はい、わかりました」

彼は微笑んだ。そして呪文を唱えた。すると少女は幸福そうに目を閉じ、ゆっくりとそこに身を横たえ、やがて静かな寝息をたてはじめた。

彼は再び翼を広げ、空に飛び立った。耳の中に、金の針のような誰かの声が飛び込んできた。

「わかりました」と、什は言った。そしてその声で、目を覚ました。

気付くと、彼は、寝室の寝床の中にいた。目を上にあげると、いつもの天井の木目模様が見える。

什は横になったまま、しばしぼんやりと白い思考の中を漂っていた。何かしら不思議な夢を見たような気がするが、何だったろう、と彼は思った。よく思い出せない。それは美しい夢だったようだが、思い出そうとすると、よけいに記憶が白い霧の向こうに逃げてゆく。ただ、なんとなく、昔雑誌で見た敦煌の壁画が思い浮かんだ。そういえば、夢の中で、るみに会ったような気がするが。

突然、枕元の目覚まし時計がけたたましく鳴った。夢の気配は弾け飛んで、どこかへ消え、什は慌てて目覚ましをとめると、いそいで寝床から起きあがった。


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