「わが名はレギオン、大勢なるがゆえに」
誰かが、小さな声でつぶやきました。するとその隣にいた青年が、怒りをこらえながら、震える声で言いました。「ぼくもそれ、なぜか思い出したよ。マルコだね」
そこは、ある深い山の奥の、高い崖の下でした。
青空に日はようやく高く上り始め、どこからかカッコウの鳴く声が聞こえました。六人の若者たちが、その崖の下に打ち捨てられた惨い遺体を囲んで、それぞれに、目を閉じて唇をかみしめたり、しきりに頬を流れる涙を拭ったり、胸に手をあてて氷のように立ちつくしていたりしていました。
「彼は、どうしてる?」「遺体の中でまだ眠っている」「よほど辛かったんだろう」「…二十七歳か」「この世でなすべきことを、ほとんどできないまま、死んでしまった」青年たちは、遺体を囲みながら、体や声をふるわせつつ、口々に言いました。
「どうする?彼を起こそうか?」誰かが言ったことに、誰かが答えました。「いや、その前に準備をしておこう。花を咲かせたり、小鳥を呼んだり、できるだけ、彼の魂が心地よく目覚められるように、やすらいのたねをたくさんつくっておこう」「…うん、それがいい」
青年たちは魔法を行い、遺体をできるだけきれいに整えると、その周りの草むらを清め、シロツメクサの花をたくさん咲かせました。小鳥を呼び、枝々にとまらせて、歌を歌わせました。白い百合の花もいくつか咲かせ、金のメダルのような光るタンポポもあちこちに散らしました。一羽の鳩が、神の使いのようにどこからか飛んできて、少し離れたところに立っている高い木の、てっぺんに近い枝にとまりました。
遺体の主は、三十年ほど前に入胎命令を受け、地球に生まれてきた青年でした。地球上で生きている間、いくつかの仕事をしてくるはずでしたが、それもほとんどなすことができず、若くして、あまりにも惨い死に方をしてしまったのです。彼は、音楽と文学に高い才能を現し、容姿にも恵まれた上に、人柄もよかったので、それを周囲に妬まれ、ある日、友人たちに騙されて、町のはずれの山際にある、元は精神科の病院だったという古いビルに呼び出され、そこの地下にある鉄格子の部屋に閉じ込められ、そのまま、友人たちに見捨てられ、放っておかれたのでした。
彼を地下牢に閉じ込めた友人たちは、何週間か経ってようやく、彼の元を訪れましたが、彼が牢の中に倒れて餓死寸前のまま、まだ死んでいないのを見ると、ひそひそと相談し合い、誰かが持っていたナイフで、彼の胸を刺したのです。
「…いいか、これはみんなでやったことだからな」
地下室の遺体を囲んで、彼の胸にナイフを刺した男が、手についた血を拭きながら、ほかの皆に言うと、皆は黙ってうなずきました。その様子を、青年たちは絶望に凍りながらずっと見ていました。青年たちは、彼を何とか助けようと、彼を地下室に閉じ込めた人たちの心に訴えたり、事態を何とかできそうな人の魂を導いたり、少しでも彼の命をつなぐため、地下室に水が流れてくるようにするなど努力しましたが、結局は、誰も彼を助けようと考える人は出てこず、彼はこうしてあまりにも惨すぎる死に方をしたのでした。
そして男たちは、夜中に車で遺体を運び、この山の中に捨てて行ったのです。彼を地下牢に閉じ込める計画をした男は七人、胸にナイフを刺して殺した男は一人、遺体を運んだのは五人ほどの男でしたが、彼が廃墟のビルの地下の一室に閉じ込められたまま、放っておかれていることを知りながら何も知らないふりをした人たちは、四十人ほどいたでしょうか。彼が行方不明になったと聞いても、別に何も心配しなかった人を数えれば、百人は超えるかもしれません。
「みんなでやった…か」ひとりの青年が、怒りのにじむ声で言いました。青年たちは遺体の周りにあふれんばかりに花を灯しながら口々に言いました。「それは大昔からの、罪びとの決まり文句だ」「みんながやったから、自分のせいじゃないって言うよ!」「いつもこうだ!少しでも自分たちよりいいものを持ってると思うと、人間はみんなでひとりをいじめて、殺す!」
誰かが大きな声で憎悪を吐いたので、一人の青年がそれを清め、静かな声で言いました。「みんな、もうよそう。苦しいけれど、悲哀や憎悪に長い間浸っているのは、よくない」「…ああ、わかってるよ」憎悪を吐いた青年は、声を低くして言いながら、自分の感情を落ち着かせました。しかし涙はとまりませんでした。
やがて迎えの準備は整いました。彼はまだ遺体の中で眠っています。その安らかな顔を見ながら、ふと一人の青年が言いました。
「どこのコメディアンだったかな。こんなのを聞いたことがある。『赤信号、みんなでわたれば…』」「ああ、それはぼくも知ってる」「愚かで間違ったことも、大勢でやれば正しくなるという意味だ」「みごとな名言だね」誰かが鼻をすすりつつ、皮肉を言いました。
遺体の中で、何かがかすかにうごめく気配がしたので、ある青年が、小さな優しい声で清めと慰めの呪文を歌い始めました。それに合わせて、ほかの青年たちも歌い始めました。青年たちは遺体を取り囲み、愛をこめて歌い、眠っている魂の傷を癒し、目覚めを呼びかけました。そして皆が、その歌を六回も繰り返して歌った頃、ようやく、遺体の中から、何かがふらりと出てきて、ゆっくりと半身を起こしました。歌を歌っていた青年たちのひとりが、耐えられなくなり、まだ意識のぼんやりしていた彼の体を、泣きながら抱きしめて、叫びました。「愛してるよ、愛してるよ、どんなにか辛かったろう!」。そこでようやく、はっきりと目を覚ました青年は、「ああ」と声をあげて、ぱっと元の自分の姿に戻り、茫然と周りの皆を見ながら、言いました。
「…ああ、そうかあ。あれはみな、夢だったのか…」彼は蝋のように青ざめた顔で、ほっとしたようにため息をつきました。その胸のあたりには、ナイフの傷を受けたあとが、まだ残っていました。誰かが涙に震える声で言いました。
「夢じゃないよ。だが夢みたいなものだ。君、ぼくの顔を覚えているかい?」
「…え?ああ、覚えている。みんな、覚えている。…そう、そうだ、ぼくは、月の世で、君たちと氷雪の地獄を管理してたんだっけ…」
まわりでシロツメクサやタンポポや百合や小鳥が、しきりに慰めの歌を歌いました。そして一生懸命愛を送りました。本当に、惨いことを経験した魂には、愛がよほどたくさんいるのです。彼の魂が病気にならないように、青年たちも愛を歌いながら、かわるがわる彼を抱きしめてゆきました。
「ありがとう、みんな、来てくれたんだね」目を覚ましたばかりの青年は、力弱く笑いながらも、みんなの愛を喜び、深くお礼を言いました。「ああ、シロツメクサだ。ぼくの好きな花だ。知っている。シロツメクサは、誰にも何も言わずに、とてもよいことをするんだ。ぼくは、そんな風に、みんなのために、いいことをやっていたつもりだったんだけどなあ…」青年は、まだぼんやりした顔で、周りの花園を見まわしながら言いました。ほかの青年たちはただ、じっと黙って、どうにもならぬ苦い感情をかみしめながら、彼を見つめていました。
「さあ、もうそろそろ帰ろう。帰ったら、ぼくが代わりにお役所に届けを出しておくから、君は少し休むといい」「…ああ、そうしてくれると、うれしいよ」「疲れてるだろう。自分で飛べるかい?」「…うん、ああ、いや、ちょっと無理みたいだ。腰から下に力が入らない」「じゃあ、ぼくたちで抱えて行こう」
青年たちは森と神に感謝の儀礼をすると、死んで間もない青年を、ふたりの青年が両脇から抱え、鳥の群れのように、ふわりと宙に浮かび上がりました。ただ、この事件の後始末をするために、ひとりだけが遺体のそばに残りました。
「…あの遺体はどうなる?」抱えられた青年が問うと、すぐ後ろを飛んでいた青年が答えました。「…ああ、きっとほどなく、警察が見つけるよ。残った彼が何とかするから」
「集団殺人か…。君は、友達みんなに裏切られて殺されたんだ。この罪は、高くつく」
「…ああ、でも、もういいよ。わかってる。人間はみな、自分が苦しいんだ。ぼくも、もう辛かったことは忘れたい。帰って、少し安らいだら、学堂で笛の講義でも受けたいな…」下界を見下ろしながら、青年は小さな涙を落とし、少しさみしそうに言いました。
青年たちが、青空の向こうに消えて行くと、それと同時に、花園は消え、小鳥たちも飛び去って行きました。残っていた青年も、しばし遺体を見つめ、決意に目を鋭くした後、自分の役割を果たすために、そこから姿を消しました。一羽の鳩が、彼らの様子を、ずっと木の上から見つめていました。
皆がいなくなって、しばらくすると、木の枝に止まっていた鳩は、翼を広げ、遺体のそばまでふわりと降りてきました。そして遺体の周りを少し歩き回ったあと、それは突然強い光を放ち、そこに、白い服を着て、朱色の燃えるような翼をした、ひとりの天使が現れました。天使は、鳩がとまっていた木よりも背が高く、透き通った水色の髪をなびかせ、アベンチュリンのように清らかな緑の目には、白く強い星が静かにも激しく燃えていました。天使は、ほう、と息を吐くような声で何かを言うと、ゆっくりと遺体のそばにひざをつき、目を細め、唇に慈愛を現し、翼を優雅に広げて魔法を行い、遺体の中に残った悲哀を深く清めました。
若者の遺体は、青ざめてはいますが、白い顔に、やさしい微笑みを浮かべていました。天使は、その残った脳髄の中に、生前の彼の最後の思考が、かすかな信号の跡になって残っているのに気付き、そっとそれを読み取りました。それは、悲しみに満ちた声で、こう言っていたのです。
「ああ、みんな、ただ、愛していただけだったのに…」