
冉求曰く、「子の道を説ばざるにあらず。力足らざるなり。」子曰く、「力足らざる者は、中道にして廃す。今なんじは画れり。」(雍也)
冉求が言った。「先生の道がいやだというわけではないんです。わたしはだめなんですよ。できないんです。」先生はおっしゃった。「ほんとうにだめなやつは、途中で倒れる。おまえは自分で自分をだめだと思って、だめにしているだけだ。」
学校だとか、職場だとかで、いつも交わされていそうな会話ですね。先生と生徒の間で、または上司と部下との間で。若いもの、学びの途中にあるものは、たいてい何度かはへこたれて、こういう。「おれはだめなんだよ。できないよ」。なぜそういうかというと、たいていの理由は、「あいつとくらべると、おれはへたれだから」ってことくらいです。すべては、自分が小さく見えるから。苦しくて、ちっぽけで、とるにたらないもの、消えたってどうってことないもの、そんな風に思ってるから。
で、いろんなことを、途中でやめてしまう。でも、途中でやめてしまうと、いつも心の中が、苦しい。なぜだろう。なぜ、やらないんだろう。おれはばかだ。ほんとは、やってもよかったんだ。やったほうがよかったんだ。ほんとは勉強したかったんだ。
苦しくて、苦しくて。その苦しさを、ちがうことで晴らそうとする。勉強する方が馬鹿なんだよということにして、もっと簡単な方法があるじゃないかって、阿呆なことをして、結局自分をだめにしてしまう。ときに、あまりに馬鹿なことをしてしまって、自分を、あまりに苦しいものにしてしまう。すばらしいことがやれたはずの自分を、無意味な阿呆にしてしまう。後悔がきつい。苦しい。阿呆なんだおれは。なんで自分をだめだなんていったんだ。
苦しいのは、やらなかったからなんだ。できたはずのことを、やらなかったというだけで、すべてだめにしてしまったからなんだ。自分が捨ててしまったものが、とても大変なものだったということが、苦しいんだ。おれは、すごいものをだめにした。おれがやれるはずだったこと、すべてをだめにした。だからいま、苦しすぎるんだ。
おれは、おれをだめだといって、だめにしてしまったんだ。じぶんで、じぶんを、だめにしてしまったんだ。
やればよかったんだ。ただそれだけだったんだ。ただ、まっすぐなおれを、やればよかったんだ。それだけで、人間は、すごいことができる。おれ自身というものは、すごいものだったんだと、そのときはじめてわかる。
自分はだめなんだよって言って、すべてを捨ててしまったら、それらがすべてだめになるんだ。だから、こんなにも苦しい。
自分を捨ててはだめだ。それがすべて、苦しいことになる。決して捨ててはだめだ。おれは、阿呆じゃない。阿呆みたいにちっこいことでも一生懸命に、まっすぐにやる、おれ自身なんだ。それでいいんだ。