高い水晶の氷壁が、わたしの周りを囲んでいます。月はまるで白い菊の花のようです。そのせいか、空から落ちてくる月光には、不思議に清らかな香りがします。どこか、墓前に供える線香の香りにも似ています。空は、どういうのでしょう、灰緑色というのでしょうか。菊のような月を虚空に支えながら、空はただ黙して果てもなく広がっています。いやあるいは、あれは、どなたかが果てしない彼方にある天井に塗った色なのかも知れません。
わたしは、ある人生で、仏師をしていたことがありました。仏像を彫るのが仕事でした。生きていた頃は、それなりの腕を持ち、たくさんの観音菩薩や、釈迦如来や、薬師如来、虚空蔵菩薩や、弥勒菩薩などを、桜や桂の木を彫って、作っていたものでした。
わたしの名を申し上げましょう。わたしの名は今、「無に等しき者」と言います。無ではありませんが、「無に等しき者」と呼ばれます。それは要するに、存在はしていても、誰もわたしを存在しているものとして、相手にはしてくれないという意味です。どうしてこうなったのかは、言いたくありません。忘れたいからです。なぜなら、それを人に知られるのは、とても、恥ずかしいことだからです。
とにかくは今、わたしは白い石英の壁に周りを囲まれた、小さなくぼ地の中に、ただ一人でいます。どれだけの間、ここにいるのか、また、どれだけの間、ここにいなければならないのか、わかりません。ただ、永遠ということばは、難しい顔をして、私の胸の中に固まっています。わたしはそれを考えたくはありません。とにかく、今は、考えたくありません。
月光は、少し熱を持っていて、それに手を濡らして、水晶にあてると、水晶が少し溶けます。わたしはそうやって、水晶を少しずつ溶かし、昔得た技を使って、数々の仏像を作っています。それはたくさん作りました。十一面観音を作り、文殊菩薩を作り、普賢菩薩を作り、千手観音を作り、阿弥陀如来を作りました。千手観音の像などは、わたしもかなり、よいものにできたと自負しています。千本とはいきませんが、それに等しいと言っていいほどたくさんの手を、一つ一つ手を抜かず、丁寧に彫りあげました。観音は、目を伏せて、少し微笑んでいます。しかしその目は凍りついて動かず、決してわたしを、見ようとはしません。見ようによっては、わたしは菩薩にさげすまれているような気すらします。
わたしは、知っています。仏という存在は、本当は、この世界にはいないことを。神は存在しますが、仏は、いないのです。ただ、地上に、それを篤く信仰している人が多いため、時に聖なる方々が、仏の姿に変わり、その役目をはたしてくれることがある。そういうものが、仏なのです。
釈尊という方は、実際にいらしたそうですが、仏教は、釈尊の教えを、ほとんど正しくは伝えていないそうです。たくさんの仏教者が、それを是正するために地上に降り、様々な改革を、仏教の中に試みてみましたが、それはある程度の効果はあげているものの、根本的な解決にはいたらず、今も仏は、真実と虚偽の間のあるはずのない虚無の中で、永遠の寂寥の塊と化して、微笑みを凍らせて、悲しげに人々を見下ろしながら、ただ、救済を求める人々の願いを、風をよけるように耳からそらし、慈悲という、悲哀のため息ばかりを、無言のまま、人々に語りかけ続けているのです。
けれども、こうして、仏像を彫り続けていることは、今のわたしにとって、確かな救いとはなっています。彫りあげた仏像は、決してわたしを救ってはくれません。わかっているのです。でもわたしは、心のどこかで、救いを願いつつ、仏像を彫り続けています。何体も、何体も、月光に濡らした手で、水晶を溶かしては、慈悲深い仏を彫り続けているのです。観音菩薩、地蔵菩薩、不動明王、金剛力士、四天王、八部衆、八大童子…。こうしていれば、いつかは、このわたしの、罪深い身にも、救いが訪れるでしょうか。それはいつのことでしょう。考えてみます。時はもう、長く長く過ぎてしまって、さて、あれはいつのことだったか。わたしが、恥ずべき惨い罪を犯し、それから永遠に逃げ去ろうとして、神をたばかろうとしたとき。わたしが、月の世の一隅の小さな松の木の暗い影に隠れて、何とか、永遠に自分の罪から逃げられないものかと考えていると、不意に、傍らの松が梢をゆらし、一筋の月光がわたしの頭に降りてきて、それは針のようにわたしを突き刺し、いっぺんにわたしの足もとが崩れて、わたしは大きな虚空の中に突き落とされ、灰緑色の中を、終わりもないかと思うほど長い間落ち続け、そしていつしか気付いたときにはこの、水晶の氷壁に囲まれたくぼ地に、ひとりたたずんでいたのでした。
もう一度申し上げます。わたしは、「無に等しき者」という名の者です。永遠に、いや、多分終わるときは、いずれはくることでしょうが、それは永遠と等しき長い年月を、わたしはその名を負って、この小さなくぼ地で、孤独に暮らしていなければなりません。誰にも、相手にされずに、誰にも、愛してはもらえずに。わたしにできることは、水晶で仏を掘ることと、時に仏に語りかけては、救いを願うことと、時々、永遠について、考えてもしょうがないことを、ぐだぐだと考えては、神や、わたしのほかの人たちを責め、自分の今の境遇を、自分に愚痴ることだけです。
…ええ、そうおっしゃるでしょうとも。わたしは、逃げているのです。いつまでも。自分の罪から。おっしゃってもかまいません。わかっていますから。わたしは逃げています。いつまでも、いつまでも、自分のしたことから。だからこうして、永遠に孤独でいなければならない。誰と話しているかと? ほ、それはわたし自身。わたしは、わたしとばかり話している。問うのも、答えるのも、わたし自身。ほかには誰も答えてはくれない。
神は、わたしを見捨てたのでしょうか。そうかもしれません。そうなってもおかしくはないことを、たしかにやりました。神は、お見捨てになったかもしれない、わたしを。ですが、仏は、わたしを、救ってくれるかもしれない。仏は、存在しません。知っています。仏は、地上で信仰している人のために、聖なる方々が、その役割を、地上の人たちのために荷ってくれているもの、そういうものであり、救済者でも神でもないのです。仏にできることは、救うことではなく、かろうじて、人々の犯している間違いを、何とか正しい方向へと導こうとすることだけなのです。ああ、それも、本当に、徒労に等しき仕事を、仏は、長い長い間、やり続けていらっしゃいます。人々が、仏に求めている救いは、ないのです。なぜなら、仏に救いを求めることは、間違いだからです。けれども、わたしは、救いを求めることをやめることができません。こうして、仏像を彫り続けていれば、いつかは、どなたかが、わたしを救い、浄土への道へと、手を差し伸べて連れていってくれるかも、知れません。それだけが、今のわたしの、一縷の望みなのです。
わたしは今、一体の弥勒菩薩を彫っています。記憶の中にある、優しげな微笑みをし、目を伏せて、唇に指を寄せ、何か不思議な考え事をしている、弥勒菩薩半跏思惟像です。弥勒は、五十六億七千万年後に、人々をどうやって救えばいいか、ずっと考えていらっしゃるそうです。どんなことを考えていらっしゃるでしょう。それはきっと、すばらしい方法であるに違いない。奇跡のような出来事であるに違いない。まるで魔法のように、人々が浄土に次々と呼びだされ、幸福の花園の夢の中で、永遠の極楽の眠りにつくことができる。もはや孤独も寂寥も苦悩も苦痛もない。あらゆる愚かな迷いから解き放たれ、ただ永遠の楽土において、わたしはただ、幸福にそこにいればいいだけで、もう何もしなくていいのだ…。
何も、しなくて、よい。それが、無の境地というものでしょうか。はたして、それは、存在していると言うことでしょうか。救いとは、無に帰するということでしょうか。それなのなら、「無に等しき者」というわたしは、もはや救われているのでしょうか? わかりません。仏の教えは、難しい。釈尊はそんなにも難解なことを、人間に教えたのでしょうか。 とても常人には理解できないことを、釈尊は御存じだったのでしょうか。それは、わたしたちがたどりつくことなどできない、はるかなはるかな、高みの、境地なのでしょうか。それならば、人々が救われることなど、ほとんど不可能ではありませんか。どうすればいいのでしょう。
仏は、わたしを、救ってくれるでしょうか。わたしは、製作中の弥勒に問いかけます。水晶の弥勒は、ほぼ出来上がっており、あとは、唇に寄せる、優雅な指先を彫り上げるだけになっています。微笑みはかすかで、瞳は優しげに伏せ、その奥に、慈愛の気配があるような気がします。語りかければ、答えてくれるような気もします。
弥勒さま。わたしを、救ってくださいますか。永遠の極楽浄土へ、連れていってくださいますか。わたしは、弥勒菩薩に、尋ねます。しかし、弥勒は、答えてはくれません。わたしは、月光に手をぬらし、指先を微妙に動かしては、水晶を溶かして、弥勒のやさしい指先を作っていきます。あとは、小さく細い、小指を、作り上げるだけ。春先のつくしが、小首を傾げたような、細い小指を、わたしは作ります。…ああ、ほら、できました。弥勒は唇に、指先を寄せ、静かに微笑みつつ、考えていらっしゃいます。
さて、どのようにして、穢土にいる人々を救おう。どのようにして、この仏師を、救おう。
わたしは、しばし、自分の技の見事さに、自分で感心しつつ、弥勒菩薩を見つめました。これほど見事な仏を作ったのは、はじめてです。せんないことでも、やっていれば、腕は磨かれてくるものだ。わたしの技も、知らないうちに、だいぶ、上がってきているようだ。弥勒菩薩は、本当に美しく、透き通って、私の前で静かに微笑んでいます。わたしの方を見ようとはしませんが、ただ目を伏せて、考えていらっしゃいます。どのようにして、おまえを救おうか。どのようにして…。
わたしは、思わず、その姿の前に手を合わせ祈りました。どうか、お助けを、お救いを。罪深く、孤独の地獄に永遠に潜んでいなければならぬこの身を、どうか救ってください。
そのときでした。菊色の月光が、一筋、濃く、弥勒菩薩に降り注いだかと思うと、弥勒菩薩が、ゆらりと動き、ふと、まなざしをあげて、わたしを見たのです。わたしは驚いて、あっと声をあげ、思わずそこに尻もちをつきました。弥勒は、しばしわたしを見つめたあと、半跏思惟の姿勢をとき、ゆっくりと立ち上がりました。そして音もなく、わたしに背を向けると、そのままあっちの方へ歩いて行ってしまわれようとするのです。いつしか、弥勒の前には、水晶の氷壁が消え、一筋の白い月光に照らされた長い道があり、弥勒はその道を、まっすぐに進み始めているのです。
わたしは、叫びました。
「待って下さい!わたしを、浄土につれていってください!わたしを、救ってください!」
すると、弥勒は、ふと立ち止まりました。その背中を、一息、静かな風がよぎりました。わたしは、凍りついたまま、そこに座っていました。立ち上がって、弥勒を追おうとしても、まるで何かに縛られているかのように、体がどうしても動かないのです。弥勒はやがて、ゆっくりとふりむき、わたしの顔を冷たく青い透き通った目で見下ろしました。その、前には唇に寄せられていた優雅な指先には、いつしか、薄紅色の薔薇が一枝、にぎられていました。そして弥勒は、静かな声で、わたしに言うのでした。
「わたしはもう、考えるのをやめた。わたしは、わたし自身を救うために、行く。おまえはいつまで、そこで、考えてばかりいるのだ」
そう言うと、弥勒はまたわたしに背を向け、眼前に続く、まっすぐな白い道を静かに歩いて去っていくのです。わたしはその後に追いすがろうと思いました。しかし、私の体は石のように重く、ただにじるように、ほんの少し前に、膝を動かすことしか、できませんでした。弥勒の姿はだんだんと遠ざかり、見えなくなり、やがて白い道も消え、永遠の水晶の氷壁が目の前に戻ってきました。
弥勒は、行ってしまいました。
わたしはまた、ひとり、残されました。
ああ、永遠とは、どれだけの月日でしょう。わたしは、どれだけの間、何も考えず、風の中に、過ごしていたでしょう。弥勒がいた。それはわかっていましたが、もう、考えたくはありませんでした。わたしは再び、月光に手を濡らしました。そうだ、今度は聖観音を作ろう。慈愛に満ちた新しい観音菩薩を彫ろう。観音経には、観音を信じさえすれば、観音様は自由自在に変化して全ての者のところを訪れ、全てのものを救うと書いてあるそうです。それが本当なら、わたしも、救ってくれるはずだ。「無に等しき者」というわたしのこの身も、今度こそ、救ってくれる、はずだ。
わたしは、水晶の塊に、月光に濡れた手でふれ、まずはほんのひとすじ、水晶の塊に、小さなくぼみを入れました。