シェイクスピアの史劇「ヘンリー五世」中の「聖クリスピアンの祭日の演説」についてはローレンス・オリヴィエによる映画化版を何度か取り上げた。
男子たるもの、一生に一度くらいはこのような優れたスピーチを行なってみたいものである。
○シェイクスピア偽作者(別人)説を扱った「もう一人のシェイクスピア」(2011年)の劇中劇のシーンは、何度観ても鳥肌が立つ。
○オリヴィエ版「ヘンリー五世」(1945年)
フランス遠征を企てた若きイギリス王ヘンリー五世。
数倍の敵軍と対峙したアジンコート(アジャンクール)の戦いを目前に控え、敗色濃厚と意気消沈している自軍の兵士たちを、雄々しく鼓舞する。
今日は10月25日、聖クリスピアンの祭日だ、
今日を生きのびて無事故郷(くに)に帰るものは、
今日のことが話題になるたびにわれ知らず胸を張り、
聖クリスピアンの名を聞くたびに誇らしく思うだろう。
今日を生きのびて安らかな老年を迎えるものは、
その前夜祭がくるたびに近所の人々を宴に招き、
「明日は聖クリスピアンの祭日だ」と言うだろう、
そして袖をまくりあげ、古い傷あとを見せながら、
「聖クリスピアンの日に受けた傷だ」と言うだろう。
老人はもの忘れしやすい、だがほかのことはすべて忘れても、
その日に立てた手柄だけは、尾ひれをつけてまで
思いだすことだろう。
そのとき、われわれの名前は日常のあいさつのように くり返されて親しいものとなり、
王ハリー(注:ヘンリー5世)、ベッドフォード、エクセター、ウォリック、
トールボット、ソールズベリー、グロスターなどの名は
あふれる杯を飲みほすたびに新たに記憶されるだろう。
この物語は父親から息子へと語りつがれていき、
今日から世界の終わる日まで、聖クリスピアンの祭日が
くれば必ずわれわれのことが思い出されるだろう。
少数であるとはいえ、われわれしあわせな少数は
兄弟の一団(バンド・オブ・ブラザース)だ。
なぜなら、今日私とともに血を流すものは
私の兄弟となるからだ。
いかに卑しい身分のものも今日からは貴族と同列になるのだ。
そしていま、故国イギリスでぬくぬくとベッドにつく貴族たちは、
後日、ここにいなかったわが身を呪い、われわれとともに
聖クリスピアンの祭日に戦ったものが手柄話をするたびに
男子の面目を失ったようにひけめを感じることだろう。
(小田島雄志訳:白水社版より)
○ケネス・ブラナーによる再映画化作品(1989年)より
○BBCのTVドラマシリーズ「ホロウ・クラウン」(2012年)より
○変わり種というか、おまけ。OKコラルの決闘を題材にした「トゥームストーン」(1993年)の中で、旅芸人の一座が独り芝居の演目として披露している。
これは「荒野の決闘」へのオマージュか。
○「荒野の決闘」(1946年)
旅芸人を拉致したならず者のクラントン一家の元へ保安官ワイアット・アープとドク・ホリディが乗り込む。
古い持ち芸の「ハムレット」の一節を忘れてしまった彼に請われて、元歯科医のドクはセリフを続ける―。
ひょっとすると、これが僕の初めてのシェイクスピア体験かもしれない。
けれども、本当にすごいのはこの映像の最後に登場する、手のつけられない悪党のクラントン老(ウォルター・ブレナン)だ。
ワイアットの前で不甲斐なく両手を上げた息子たちをムチで散々殴りつけて言う、
「銃を抜いたら、必ず殺せ。」
明日は休みを取って松坂桃李主演の「ヘンリー五世」を観に行く。
自分でも意外だが、初めて日本語で「聖クリスピアンの祭日の演説」を聞くことになる。