電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

田舎の法事の現状と意味を考える

2005年09月24日 22時13分13秒 | Weblog
今日は、予定どおり親戚の法事に出かけた。黒の喪服に黒ネクタイをしめ、御香料と数珠を持ち、すぐ近所の一族の本家の宗主と連れだって出かけた。着いてすぐに仏壇に御参りをし、施主に御挨拶をしてお茶をいただいているところに菩提寺の住職が到着、すぐに法要と焼香の準備にかかる。焼香の際に必要な炭が見付からず、あわてる。当主の奥様は様々な準備でそこまでは気が回らないこともある。どこかにあるはずなのだが、当主と親戚が探しても、あわてるばかりで見付からない。やむをえず、お線香を折り、炭のかわりに代用することに。
かくて、ようやく読経が始まり、足がしびれるのをこらえてお経を聞く。もう何十年もの間、何回となく聞いているお経だが、解脱や悟りはどんな精神的現象なのだろう。そういえば、最近中村桂子さんが般若心経(でよかったのかな?)の生命科学的解釈を本に書いていたなぁ、などと不謹慎なことを考えながら、お経を聞いた。
法要が終わり、歩いて寺に移動する。幸い、お天気もまずまずで助かった。寺の本堂で読経と焼香を済ませ、おみど(大御堂?)を御参りし、続いて隣接する墓地に移動して参会者が一人一人線香を手向け、仏に御参りをした。
山門前には、準備良く専用バスが到着しており、市内の割烹へと移動。施主となった夫妻の御挨拶のあと、住職の発声で御馳走をいただいた。今回は、純粋な精進料理ではなく、割烹の法事向けのメニューのようだった。料理では、お刺身やテンプラなどよりも、季節のキノコ料理と土瓶蒸し、それにあけびの味噌煮や冷たく冷やしたむきそばなどが美味しかった。30名弱の親族や一族の参会者中には、酒豪も酒癖の悪い人もいず、いたってなごやかな宴席であった。
施主の挨拶のあと、再び専用バスで自宅に戻り、そこで一族の者は解散、兄弟姉妹など、家族の人たちがしばらくぶりの再会を機に語り合ったことだろう。

子どもの頃、家族が死去したのに、親戚知人一同が和やかに談笑しているのを見て、不審に思ったことがある。だが、今ならば違う風に考える。年寄りが天寿を全うするように、遅かれ早かれこの世に別れを告げる日はやってくる。葬儀や法事は、遠く離れ離れになっている人々も、久しぶりで会って語り合うことのできるよう、死者が生者に贈る最後の贈り物なのだと。
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ハイドン「太陽四重奏曲」を聞く

2005年09月24日 08時49分07秒 | -室内楽
夏から断続的にハイドンの弦楽四重奏曲作品20、いわゆる「太陽四重奏曲」を聞いている。全6曲が2枚組で収録されているCD(DENON COCO-70733-4)である。一枚もののCDと同じケースにニ枚が入っているので、荷物にならないだろうと思って持参し、札幌のホテルや公園で、携帯CDプレイヤーで聞いたり、通勤の車中で聞いたり、また自宅で聞いたりして、しばらく楽しんだ。
実際の演奏会でなら、集中して聞くことができるので、初めて聞く曲でもスッと入って行くことができる。しかし、LPやCDで初めての音楽に接するときは、ながら聞きであったり電話等で中断されたりで、演奏会のように集中が続かないことが多い。ハイドンの弦楽四重奏曲は、作品64や作品76などを通じてだいぶ親しくなったとはいうものの、見知らぬ音楽に変わりはない。そのため、何度も何度も繰り返して、自然に耳になじんでしまうまで聞いた。ハイドンの親しみやすく優しい音楽である以上に、中に暗い悲劇的な表現や、強い情感の表出がある。これは素晴らしい音楽・演奏だ。

(1)弦楽四重奏曲第31番、変ホ長調、作品20-1
(2)同 第32番、ハ長調、作品20-2
(3)同 第33番、ト短調、作品20-3
(4)同 第34番、ニ長調、作品20-4
(5)同 第35番、ヘ短調、作品20-5
(6)同 第36番、イ長調、作品20-6

そういえば、若いベートーヴェンがハイドンの弦楽四重奏曲を筆写して勉強したというエピソードが伝えられているが、もしかするとこの曲集あたりが該当するのではないか。古典的な優美な音楽であることを突き抜けて、強い情感を表している音楽を勉強する若いベートーヴェン。この曲集には、そんな想像をさせる要素がある。

演奏は、旧東独のウルブリヒ弦楽四重奏団。ドレスデン・シュターツカペレの奏者が集まって組織された団体とのこと。1970年、ドレスデンの聖ルカ教会でのアナログ録音。こういう録音が、2枚組1500円という廉価で再発売されることを喜びたい。
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