電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

平岩弓枝『御宿かわせみ17・雨月』を読む

2005年09月19日 21時34分36秒 | -平岩弓技
先週末から風邪気味だったが、この三連休おとなしくしていて、ほとんど作家的生活をしていたためか、だいぶ調子が回復してきた。文春文庫で、平岩弓枝著『御宿かわせみ17・雨月』を読む。

第1話「尾花茶屋の娘」では、どこかニヒルな旗本の末弟は離別された兄嫁と心中し、孤独で意地っ張りな商家の娘はやくざの子を宿したまま川に身を投げる。第2話「雨月」は、菊見に出かけた先で出会った商人風の男は、住職と生き別れの兄弟だった。大火が分けた明暗は、実母に出会った方が幸せとは限らなかった。第3話「伊勢屋の子守」に登場する子守娘、可愛げがないからといっていじめるのもいかがなものか。
第4話「白い影法師」、跳梁する盗賊が霧の中で東吾らに出会ったのは運が悪かったということだろう。さりげなく東吾が幕府の軍艦操練所に休職願を出していることが示される。このあたり、たぶん後で必要になってくるからだと思われる。
第5話「梅の咲く日」。作者は東吾とるいの夫婦に子どもができないことを問題にしはじめている。深川の蕎麦屋長寿庵の長助の孫、長吉の手習いが最初のきっかけだ。事件の方は、昔の盗賊仲間に出会ってしまった父親が、見捨てた息子に知られず仲間を始末し自分も死ぬ、という筋書き。
第6話「矢大臣殺し」、皆が皆、自分こそ犯人だと自首して来る。そんなときは、犯人はお稲荷さんだということにせざるをえないのさ、という東吾の私的判決。まぁ、気持ちはわかるけどねぇ。
第7話「春の鬼」、不倫の子を宿した妻が夫を殺し、不倫の相手と心中する話。第8話「百千鳥の琴」、おみわに残した五百両は現金ではなかった。るいの琴を守ろうとした和光尼の体当りは迫力だ。

可愛く性格の良い子どもが幸せになるのは結構なことだが、あまり可愛くもなく、性格もそう善良とばかりはいえない子どもが概して不幸になるのは、はたして当然のことなのだろうか。ふとそう思う。それは、優等生幸福論ではないのか。
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1ダースなら安くなるってもんじゃない

2005年09月19日 15時37分51秒 | -協奏曲
ヴィヴァルディの「四季」を含む協奏曲集「和声と創意への試み」の曲数がどうして12曲なんだろう、という素朴な疑問。ヴィヴァルディが指導していた、聖ピエタ養育院の少女達からなる40名の合奏団(*1)のヴァイオリン奏者の中で、12名が交互にソロを演奏するように、協奏曲を工夫したと考えた。これは、別に根拠があるわけでもなんでもなく、単に現代の演奏会のように一人だけがソロを担当すると、特定の少女へのえこひいきのようになり、運営バランス上まずいのではないか、と考えたからである。苦労人のヴィヴァルディ、そんな下手な対応はしないのではないか、という推測だ。

(*1): 皆川達夫氏の著書『バロック音楽』(講談社現代新書)によれば、1739年、ある旅行者の記録として、「すばらしいのは孤児院の音楽です。(中略)生徒はみな女子で、庶子、孤児、養育能力のない親の子からなっています。彼女らは国の費用で養育され、もっぱら音楽をしてまわっています。そのうえ、彼女らは天使のように歌い、ヴァイオリン、フルート、オルガン、オーボエ、ファゴットなどを演奏します。要するにどんな楽器でもこわがりません。彼女らは修道女のように閉じこもって生活をしています。彼女たちだけで演奏し、毎演奏会に40名参加します。(後略)」(p.123)とある。

それはさておき、考えて見ればなぜ12曲なんだろう?ヴィヴァルディの協奏曲は、作品3の「調和の霊感」も作品9の「和声と創意への試み」も、全部で12曲からなっている。コレルリ(1653-1713)の合奏協奏曲集作品6も、全部で12曲だ。これに対し考えられるのは、
(1)1年が12ヶ月からなることを表わしている
(2)教会での音楽であるから、キリストの12人の使徒にちなんでいる
(3)1オクターブが黒鍵を含め12の音からなることを表している
(4)その他
というところか。楽譜出版等における西欧の習慣には全く知識がないので、実に漠然としたものでしかないが、先に掲載した「ヴィヴァルディは女子校音楽部の顧問の先生」という記事(*2)に対するSchweiter_Musikさんのコメントにあるとおり、その後の古典派の時代にはこれが6曲を1セットとするように変化して行くようだ。ハイドンの太陽四重奏曲集(Op.20)や「ひばり」を含む作品64、「皇帝」を含む作品76も、モーツァルトのハイドン・セットも半ダース組である。ベートーヴェンは初期の作品18は半ダースだが、中期のラズモフスキーあたりでは4分の1ダースの3曲になる。でも4楽章×3曲=12楽章だからいいことにしたという考え方もできる。シューマンやブラームスは、そういう慣習面から見ても、古典派に通じるところがあるのかもしれない。
(*2): 「ヴィヴァルディは女子校音楽部の顧問の先生」

そのベートーヴェン、後期になると「1ダースなら安くなるってもんじゃない」とかなんとか言って、その習慣を破棄したのだろうか。このあたりも、もしかしたら革命家ベートーヴェンの面目躍如たるものがあるのかもしれない。
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剣岳の山岳救助隊

2005年09月19日 09時59分28秒 | Weblog
先日、連休なので珍しくテレビを見た。富山県の上市警察署に置かれた剣岳を中心とする山岳救助隊の活動を紹介したドキュメンタリーだ。
最近は空前の中高年登山ブームなのだという。登山者の目標の一つが、富山県剣岳に置かれることは予想できる。新田次郎の『剣岳・点の記』(*)に見るように、登頂の困難さが登山者の意欲をかきたてる存在だからだ。
しかし、東北の山々の優しい山容とは異なり、剣岳は全山嶮しい岩の山である。一定の技術と、何よりも体力が求められる。登頂で体力を使い果たし、下山時に何の変哲もない沢で転落死する例が後をたたない。このドキュメンタリーでも、単独行らしい62歳の女性がなくなっている。
番組では、新人隊員の成長を軸にして、山岳救助隊の使命と活躍を描いていたが、いくら成長して鉄人になっても、剣岳に殺到する中高年登山者の数が多ければ、一定の確率で事故は起こるだろう。かつて穂高や剣岳を経験した同じ中高年の一人として、技術と体力の不足しがちな中高年登山者は、岩場の連続する峻険な北アルプスの岩峰よりも、森林限界の低い東北の山々の、展望の良い尾根歩きなどにもっと目を向けてはどうかと思う。中高年はどうしてもがんばりすぎる傾向があるから、もっとゆったりとした登山の楽しみ方をしてもよいのではないかと思ってしまうのである。

(*): 【物語案内】より新田次郎著『剣岳・点の記』
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