先週末から風邪気味だったが、この三連休おとなしくしていて、ほとんど作家的生活をしていたためか、だいぶ調子が回復してきた。文春文庫で、平岩弓枝著『御宿かわせみ17・雨月』を読む。
第1話「尾花茶屋の娘」では、どこかニヒルな旗本の末弟は離別された兄嫁と心中し、孤独で意地っ張りな商家の娘はやくざの子を宿したまま川に身を投げる。第2話「雨月」は、菊見に出かけた先で出会った商人風の男は、住職と生き別れの兄弟だった。大火が分けた明暗は、実母に出会った方が幸せとは限らなかった。第3話「伊勢屋の子守」に登場する子守娘、可愛げがないからといっていじめるのもいかがなものか。
第4話「白い影法師」、跳梁する盗賊が霧の中で東吾らに出会ったのは運が悪かったということだろう。さりげなく東吾が幕府の軍艦操練所に休職願を出していることが示される。このあたり、たぶん後で必要になってくるからだと思われる。
第5話「梅の咲く日」。作者は東吾とるいの夫婦に子どもができないことを問題にしはじめている。深川の蕎麦屋長寿庵の長助の孫、長吉の手習いが最初のきっかけだ。事件の方は、昔の盗賊仲間に出会ってしまった父親が、見捨てた息子に知られず仲間を始末し自分も死ぬ、という筋書き。
第6話「矢大臣殺し」、皆が皆、自分こそ犯人だと自首して来る。そんなときは、犯人はお稲荷さんだということにせざるをえないのさ、という東吾の私的判決。まぁ、気持ちはわかるけどねぇ。
第7話「春の鬼」、不倫の子を宿した妻が夫を殺し、不倫の相手と心中する話。第8話「百千鳥の琴」、おみわに残した五百両は現金ではなかった。るいの琴を守ろうとした和光尼の体当りは迫力だ。
可愛く性格の良い子どもが幸せになるのは結構なことだが、あまり可愛くもなく、性格もそう善良とばかりはいえない子どもが概して不幸になるのは、はたして当然のことなのだろうか。ふとそう思う。それは、優等生幸福論ではないのか。
第1話「尾花茶屋の娘」では、どこかニヒルな旗本の末弟は離別された兄嫁と心中し、孤独で意地っ張りな商家の娘はやくざの子を宿したまま川に身を投げる。第2話「雨月」は、菊見に出かけた先で出会った商人風の男は、住職と生き別れの兄弟だった。大火が分けた明暗は、実母に出会った方が幸せとは限らなかった。第3話「伊勢屋の子守」に登場する子守娘、可愛げがないからといっていじめるのもいかがなものか。
第4話「白い影法師」、跳梁する盗賊が霧の中で東吾らに出会ったのは運が悪かったということだろう。さりげなく東吾が幕府の軍艦操練所に休職願を出していることが示される。このあたり、たぶん後で必要になってくるからだと思われる。
第5話「梅の咲く日」。作者は東吾とるいの夫婦に子どもができないことを問題にしはじめている。深川の蕎麦屋長寿庵の長助の孫、長吉の手習いが最初のきっかけだ。事件の方は、昔の盗賊仲間に出会ってしまった父親が、見捨てた息子に知られず仲間を始末し自分も死ぬ、という筋書き。
第6話「矢大臣殺し」、皆が皆、自分こそ犯人だと自首して来る。そんなときは、犯人はお稲荷さんだということにせざるをえないのさ、という東吾の私的判決。まぁ、気持ちはわかるけどねぇ。
第7話「春の鬼」、不倫の子を宿した妻が夫を殺し、不倫の相手と心中する話。第8話「百千鳥の琴」、おみわに残した五百両は現金ではなかった。るいの琴を守ろうとした和光尼の体当りは迫力だ。
可愛く性格の良い子どもが幸せになるのは結構なことだが、あまり可愛くもなく、性格もそう善良とばかりはいえない子どもが概して不幸になるのは、はたして当然のことなのだろうか。ふとそう思う。それは、優等生幸福論ではないのか。