春の風に誘われて、山形市の霞城公園を散策しました。ここは、延文元(1356)年に斯波兼頼が奥州大崎から入部し、築かれた山形城の本丸と二の丸跡が、公園として整備されたものだそうです。山形城は斯波氏の子孫にあたる最上義光(もがみよしあき)(*1)によって拡張され、慶長5(1600)年には現在の山形市中心部の姿がほぼ整備されたのだそうで、その意味で山形市は、中世の姿をそのまま現在に伝える珍しい都市と言えそうです。
現在の霞城公園には、東西南北の四つの門がありますが、一番復元が進んでいるのが東大手門で、ここには櫓があります。
さらに中に進むと、最上義光の像が。なかなか迫力のある、ダイナミックな像です。
こちらは、最上義光公顕彰碑文。ちょいと画像のサイズが横にはみ出すかな?
この南東側には、公園を一周する土塁に上る入口がありますが、今回はパスして像から左手に進むと、山形県立博物館(*2)があり、「縄文のヴィーナス」土偶や「ヤマガタダイカイギュウ」の化石などが展示されているほか、山形の自然や歴史を知ることができます。
さらに奥に進むと、山形市郷土館旧済生館(*3)が見えます。ここでは、明治時代に山形に西洋医学を伝えた記録を見ることができます。
旧済生館の西には県体育館がありますが、むしろその北側にある本丸の発掘現場が見ものでしょう。濠を渡り本丸の一文字門跡に立つと、復元の途中の様子を見ることができます。残念ながら、山形城は平面図だけはあるものの、立面図が見つからず、時代考証を基にした建物の復元は困難なようです。
もとの場所に戻り、体育館の建物にそってさらに二の丸(公園)内を歩くと、南門方面へ向かいます。こちらは、山形駅西口・霞城セントラルビル・山形テルサホール方面への近道で、旧テニスコートの南西ゾーンは花壇が整備される予定とのこと。
南門から戻り、梅やサンシュユ、桜などの緑濃い公園内を北に歩くと、西門方面へ向かうことができます。
写真は西門付近のようすです。お濠の向こうに、山形市西部の、庶民的でのんびりした市街地が広がります。(この写真は、桜が開花する前のものです。)
西門から公園内に戻り、さらに周回すると、野球場の南のT字路に出ますが、この西側、緑濃い公園の中に、日露戦争の記念碑が立っています。はるかに大陸を望む霞城公園の西側土塁上の桜の老木は、実は日露戦争の帰還兵たちが植えたものなのだそうです。山形城址に置かれた旧陸軍第32連隊、通称霞城連隊1000名が日露戦役に出征し、半数の500名しか戻らなかったとか。落命した500名の実情はどうだったのか。吉村昭『白い航跡』等に描かれた、旧陸軍の過度に米に依存した兵食制度のため脚気病が蔓延し、戦傷者の数より脚気病の数のほうが多かったという事実(*4,*5,*6)を考えあわせると、脚気病寸前でふらふらしながら突撃を命じられていた無名の兵士たちの、戦勝記念の体裁を取りながら建てた碑にこめられた、帰らざる戦友たちへの思いが読み取れるようです。
再び公園周回路に戻り、さらに進めば、自動車の入口である北門に出ます。ここから東に折れ、山形市野球場に沿って桜のアーチの下を歩くと、駐車場とトイレの場所を通り過ぎ、ほどなく東大手門前の最上義光像の前に出てきます。これで、公園内を一周したことになります。まことに見事な桜の季節、体力に余裕があれば、こんどは土塁上をもう一度一周することも良いでしょう。あるいは公園を出て、隣接する最上義光歴史館(*7)や山形美術館(*8)を見学し、一休みするのも良いかもしれません。私なら、さらに足をのばして、山形県郷土館文翔館(*9)を見学したり、藤沢周平が学生時代をすごし同人誌を発行したりしていた(*10)、旧師範学校本館「山形県教育資料館」(*11)を見学するのもお勧めしたいところです。
(*1):WindowsXPのMS-IMEで変換すると、よしみつ→義光は変換できますが、よしあき→義光は変換できません。ところが、UbuntuLinuxのAnthyではちゃんとよしあき→義光が変換できます。かねより→兼頼も変換できず、MS-IMEはどうも武将の名前は苦手なようです(^o^)/
(*2):昭和46年にできた、動物、植物、岩石鉱物、考古、歴史、民俗、教育の7部門からなる総合博物館。入館料は大人300円、未成年は150円、小中高生と障碍者(付添1名)は無料。5月5日と11月3日は入館料無料の日とのこと。山形県立博物館のホームページはここ。
(*3):山形市郷土館旧済生館のホームページはここ。
(*4):吉村昭『白い航跡』上巻を読む~電網郊外散歩道
(*5):吉村昭『白い航跡』下巻を読む~電網郊外散歩道
(*6):『鴎外最大の悲劇』を読む~電網郊外散歩道
(*7):最上義光歴史館ホームページ
(*8):山形美術館ホームページ
(*9):山形県郷土館「文翔館」ホームページ
(*10):このパンフレットの下段に、藤沢周平が師範学校時代に発行した同人誌の写真等が掲載されています。
(*11):山形県教育資料館の案内ページ
現在の霞城公園には、東西南北の四つの門がありますが、一番復元が進んでいるのが東大手門で、ここには櫓があります。
さらに中に進むと、最上義光の像が。なかなか迫力のある、ダイナミックな像です。
こちらは、最上義光公顕彰碑文。ちょいと画像のサイズが横にはみ出すかな?
この南東側には、公園を一周する土塁に上る入口がありますが、今回はパスして像から左手に進むと、山形県立博物館(*2)があり、「縄文のヴィーナス」土偶や「ヤマガタダイカイギュウ」の化石などが展示されているほか、山形の自然や歴史を知ることができます。
さらに奥に進むと、山形市郷土館旧済生館(*3)が見えます。ここでは、明治時代に山形に西洋医学を伝えた記録を見ることができます。
旧済生館の西には県体育館がありますが、むしろその北側にある本丸の発掘現場が見ものでしょう。濠を渡り本丸の一文字門跡に立つと、復元の途中の様子を見ることができます。残念ながら、山形城は平面図だけはあるものの、立面図が見つからず、時代考証を基にした建物の復元は困難なようです。
もとの場所に戻り、体育館の建物にそってさらに二の丸(公園)内を歩くと、南門方面へ向かいます。こちらは、山形駅西口・霞城セントラルビル・山形テルサホール方面への近道で、旧テニスコートの南西ゾーンは花壇が整備される予定とのこと。
南門から戻り、梅やサンシュユ、桜などの緑濃い公園内を北に歩くと、西門方面へ向かうことができます。
写真は西門付近のようすです。お濠の向こうに、山形市西部の、庶民的でのんびりした市街地が広がります。(この写真は、桜が開花する前のものです。)
西門から公園内に戻り、さらに周回すると、野球場の南のT字路に出ますが、この西側、緑濃い公園の中に、日露戦争の記念碑が立っています。はるかに大陸を望む霞城公園の西側土塁上の桜の老木は、実は日露戦争の帰還兵たちが植えたものなのだそうです。山形城址に置かれた旧陸軍第32連隊、通称霞城連隊1000名が日露戦役に出征し、半数の500名しか戻らなかったとか。落命した500名の実情はどうだったのか。吉村昭『白い航跡』等に描かれた、旧陸軍の過度に米に依存した兵食制度のため脚気病が蔓延し、戦傷者の数より脚気病の数のほうが多かったという事実(*4,*5,*6)を考えあわせると、脚気病寸前でふらふらしながら突撃を命じられていた無名の兵士たちの、戦勝記念の体裁を取りながら建てた碑にこめられた、帰らざる戦友たちへの思いが読み取れるようです。
再び公園周回路に戻り、さらに進めば、自動車の入口である北門に出ます。ここから東に折れ、山形市野球場に沿って桜のアーチの下を歩くと、駐車場とトイレの場所を通り過ぎ、ほどなく東大手門前の最上義光像の前に出てきます。これで、公園内を一周したことになります。まことに見事な桜の季節、体力に余裕があれば、こんどは土塁上をもう一度一周することも良いでしょう。あるいは公園を出て、隣接する最上義光歴史館(*7)や山形美術館(*8)を見学し、一休みするのも良いかもしれません。私なら、さらに足をのばして、山形県郷土館文翔館(*9)を見学したり、藤沢周平が学生時代をすごし同人誌を発行したりしていた(*10)、旧師範学校本館「山形県教育資料館」(*11)を見学するのもお勧めしたいところです。
(*1):WindowsXPのMS-IMEで変換すると、よしみつ→義光は変換できますが、よしあき→義光は変換できません。ところが、UbuntuLinuxのAnthyではちゃんとよしあき→義光が変換できます。かねより→兼頼も変換できず、MS-IMEはどうも武将の名前は苦手なようです(^o^)/
(*2):昭和46年にできた、動物、植物、岩石鉱物、考古、歴史、民俗、教育の7部門からなる総合博物館。入館料は大人300円、未成年は150円、小中高生と障碍者(付添1名)は無料。5月5日と11月3日は入館料無料の日とのこと。山形県立博物館のホームページはここ。
(*3):山形市郷土館旧済生館のホームページはここ。
(*4):吉村昭『白い航跡』上巻を読む~電網郊外散歩道
(*5):吉村昭『白い航跡』下巻を読む~電網郊外散歩道
(*6):『鴎外最大の悲劇』を読む~電網郊外散歩道
(*7):最上義光歴史館ホームページ
(*8):山形美術館ホームページ
(*9):山形県郷土館「文翔館」ホームページ
(*10):このパンフレットの下段に、藤沢周平が師範学校時代に発行した同人誌の写真等が掲載されています。
(*11):山形県教育資料館の案内ページ