真夏の暑い日、週末農業で果樹園の草刈りを済ませ、午後から妻と映画を観にいきました。藤沢周平原作の「必死剣鳥刺し」です。原作は、『隠し剣孤影抄』に収録された同名の作品「必死剣鳥刺し」です。もともとがハードボイルド調ですが、この映画も実に硬派のハードボイルド、殺陣で血のりがドバーッという世界です。
映画は、藩主・右京太夫と愛妾・連子が催す能舞台の場面から始まります。能が終わり、藩主らが廊下を歩いて退出する一瞬をとらえ、主人公・兼見三左エ門は、連子を刺殺します。側室が藩政に口をはさみ、藩主がそれを認めているのですから、失政が領民にはたいへんな苛政となっていても、誰もそれを止められない。ただ一人、別家の帯屋隼人正だけが、正面切って批判していました。三左エ門は、少し前に愛妻を病で失ったばかりで、子もなく身寄りもなく、ただ死に場所を探していたときに、藩政の病患である連子を刺殺することで、少しばかり死の意味を見ようとしたのでしょうか。ところが、斬首を覚悟していた三左エ門への処分は、一年間の閉門、お役御免のうえ280石の家禄を130石に減じるという、たいそう穏便なものでした。この沙汰を申し渡されたとき、三左エ門は不審に思います。それからの一年間、ひたすら謹慎する生活を支えたのは、亡き妻の姪である里尾(りお)でした。里尾は、一度嫁ぎましたが不縁になり、弟が継いだ家も居心地が悪く、叔母の看病をする形で、兼見の家の台所に居ついたのでした。老婢と二人、庭に畑を作り、野菜を育てながら食事を作り、義理の叔父・三左エ門に尽くします。やがて閉門が解かれますが、三左エ門は世間との交わりを絶ったまま、領内を見て回ります。連子を刺殺しても苛政は変わっておらず、三左エ門の疑問は深まります。責任は藩主自体にあるのではなかろうか。
そんなとき、中老・津田民部から沙汰があり、三左衛門は旧禄に復し、近習頭取を命じられます。一体なぜ?話がうますぎる。実は、藩主・右京太夫と別家の隼人正は対立の度を深めており、早晩、直心流の名手である隼人正を除かなければならない日がやってくると予想し、天心独名流の達人という三左エ門の腕を見込んで、君側に配置したのでした。ある日、隼人正は単身で城にやってきます。そのとき、三左エ門は・・・・
いやはや、すごい斬り合いです。いくらハードボイルドといっても、人畜無害の当方など、思わず目を背けるほどのドバーッ、ピューッ、ドクドク、です。
それよりもむしろ、前半から中盤にかけて、ひたすら無口で言葉には出しませんが、里尾の三左エ門への思慕があふれています。理解と洞察力に優れる三左エ門さんが、気づいていないとは言わせません。蟄居謹慎の日々の生きる力は、里尾さんから補給してもらっていたはず。それだけに、「必死剣鳥刺し」には、ともに生きたかったという、生への願いとそれを妨げた者への怨念が込められていたことでしょう。ハードボイルドと呼ぶゆえんです。
◯
原作では、津田民部はもっと若く、「津田はまだ三十四で、三左エ門より七つも年下」とされています。映画では、いかにも狸親爺ふうに、老人という設定になっています。また、連子の政治好きも、原作では当初はかなり的確で家老たちも口出しを黙認していたことになっていますが、映画では最初から「それはないでしょう」風な悪女に描かれています。これも、わかりやすい単純化のための変更でしょう。映画では、里尾の不縁の原因は示されませんが、原作では、里尾は婚家で虐待を受け、明るい性格が、無口で頑固なものに変わっていた、とされています。三左エ門が病妻を労る姿に、自分も叔母のように愛されたいと思ったことだろうと推測されます。そうそう、鳥もちで雀をとらえる場面の一撃必中は映画オリジナルですが、思慕を告白した里尾とのただ一度の夜が一発必中なのは原作と同じです(^o^)/
この映画が一般に支持されるかどうか、やや不安な面もありますが、相当に原作に忠実に仕上がった作品であることは間違いありません。「ハードボイルド」は、藤沢周平作品の特徴の一つでもあります。その覚悟をして観るべき作品と言えましょう。

映画は、藩主・右京太夫と愛妾・連子が催す能舞台の場面から始まります。能が終わり、藩主らが廊下を歩いて退出する一瞬をとらえ、主人公・兼見三左エ門は、連子を刺殺します。側室が藩政に口をはさみ、藩主がそれを認めているのですから、失政が領民にはたいへんな苛政となっていても、誰もそれを止められない。ただ一人、別家の帯屋隼人正だけが、正面切って批判していました。三左エ門は、少し前に愛妻を病で失ったばかりで、子もなく身寄りもなく、ただ死に場所を探していたときに、藩政の病患である連子を刺殺することで、少しばかり死の意味を見ようとしたのでしょうか。ところが、斬首を覚悟していた三左エ門への処分は、一年間の閉門、お役御免のうえ280石の家禄を130石に減じるという、たいそう穏便なものでした。この沙汰を申し渡されたとき、三左エ門は不審に思います。それからの一年間、ひたすら謹慎する生活を支えたのは、亡き妻の姪である里尾(りお)でした。里尾は、一度嫁ぎましたが不縁になり、弟が継いだ家も居心地が悪く、叔母の看病をする形で、兼見の家の台所に居ついたのでした。老婢と二人、庭に畑を作り、野菜を育てながら食事を作り、義理の叔父・三左エ門に尽くします。やがて閉門が解かれますが、三左エ門は世間との交わりを絶ったまま、領内を見て回ります。連子を刺殺しても苛政は変わっておらず、三左エ門の疑問は深まります。責任は藩主自体にあるのではなかろうか。
そんなとき、中老・津田民部から沙汰があり、三左衛門は旧禄に復し、近習頭取を命じられます。一体なぜ?話がうますぎる。実は、藩主・右京太夫と別家の隼人正は対立の度を深めており、早晩、直心流の名手である隼人正を除かなければならない日がやってくると予想し、天心独名流の達人という三左エ門の腕を見込んで、君側に配置したのでした。ある日、隼人正は単身で城にやってきます。そのとき、三左エ門は・・・・
いやはや、すごい斬り合いです。いくらハードボイルドといっても、人畜無害の当方など、思わず目を背けるほどのドバーッ、ピューッ、ドクドク、です。
それよりもむしろ、前半から中盤にかけて、ひたすら無口で言葉には出しませんが、里尾の三左エ門への思慕があふれています。理解と洞察力に優れる三左エ門さんが、気づいていないとは言わせません。蟄居謹慎の日々の生きる力は、里尾さんから補給してもらっていたはず。それだけに、「必死剣鳥刺し」には、ともに生きたかったという、生への願いとそれを妨げた者への怨念が込められていたことでしょう。ハードボイルドと呼ぶゆえんです。
◯
原作では、津田民部はもっと若く、「津田はまだ三十四で、三左エ門より七つも年下」とされています。映画では、いかにも狸親爺ふうに、老人という設定になっています。また、連子の政治好きも、原作では当初はかなり的確で家老たちも口出しを黙認していたことになっていますが、映画では最初から「それはないでしょう」風な悪女に描かれています。これも、わかりやすい単純化のための変更でしょう。映画では、里尾の不縁の原因は示されませんが、原作では、里尾は婚家で虐待を受け、明るい性格が、無口で頑固なものに変わっていた、とされています。三左エ門が病妻を労る姿に、自分も叔母のように愛されたいと思ったことだろうと推測されます。そうそう、鳥もちで雀をとらえる場面の一撃必中は映画オリジナルですが、思慕を告白した里尾とのただ一度の夜が一発必中なのは原作と同じです(^o^)/
この映画が一般に支持されるかどうか、やや不安な面もありますが、相当に原作に忠実に仕上がった作品であることは間違いありません。「ハードボイルド」は、藤沢周平作品の特徴の一つでもあります。その覚悟をして観るべき作品と言えましょう。
