電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

バートランド・ラッセル『幸福論』より抜き書き

2013年09月10日 06時05分43秒 | -ノンフィクション
岩波文庫で、バートランド・ラッセルの『幸福論』を持っており、ときどきページを繰っております。もちろん、面白くて耽読するような性質の本ではありませんが、思わず考えさせられるような考察と記述が少なくありません。

もともとは、背伸びしがちな高校生の頃に、英語のテキストで原著『The Conquest of Happiness』を読まされたのがきっかけで、もちろんこのときはちんぷんかんぷん、原文の逐語訳も意味不明でした。虎の巻がわりに、岩波文庫の邦訳を購入してみたものの、中身の日本語の意味が理解できない、という状態でした。



それでも、年を取るごとに意味がわかるようになり、本書の価値が理解出来るようになりました。はじめに不幸の原因について考え、次に幸福について考えるという全体的な構成はありますが、今回は備忘のために、途中までの部分的な抜き書きを記録しておきます。

いっさいは空であるという感情は、自然の欲求があまりにもたやすく満たされるところから生まれる感情である。(「バイロン的な不幸」より、p.30)

現代の都市に住む人々が悩んでいる特別な退屈は、彼らが〈大地〉の生から切り離されていることと密接に結びついている。(第4章「退屈」より、p.74)

たいていの男女は、思考をコントロールする能力にひどく欠けている。これはどういうことかと言えば、ある心配事について何も打つべき手がない場合にも、そのことをあれこれ考えるのをやめることができない、ということだ。(第5章「疲れ」より、p.78)

実は、罪の意識は良い人生の源泉になるどころか、まったくその逆である。罪の意識は、人を不幸にし、劣等感をいだかせる。自分が不幸なので、他人に過大な要求をしがちであり、ために、人間関係において幸福をエンジョイすることができなくなる。(第7章「罪の意識」、p.117)

情緒を生み出すことは、理性の仕事ではない。ただし、幸福の障害になるような情緒を発見することは、疑いもなく、理性的な心理の働きの一部である。しかし、これらの情念を最小にする際、同時に理性が非としない情念の力まで弱めてしまうのではないか、と想像するのは誤りである。情熱的な愛、親の愛情、友情、慈悲心、科学や芸術に対する献身などの中には、理性が減らしたいと思うものは何ひとつない。(第7章「罪の意識」p.119)

字面を追うことはできても、若い頃にはとても理解できなかったのですが、今の年齢で読むと、なかなか示唆的な内容を含んでいると感じます。

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