今日は「女の人差し指」を学生が選んだ論文をネットにリストアップしながら見ていました。最後の場面が納得できなくて、検索したらこの間のテレビドラマシリーズについて概要紹介がネットにUPされていました。テレビドラマや向田作品についての批評はあるのかと思ってネットで検索しても探せないですね。ただ向田論を書くわけではなく、通りすがりの関心ですが、人間の、男と女の微妙な内的心情の物語が見せます。一家族を中心に、それも女性だけの家族が多いのですが、男兄弟がいても姉妹との近親相姦を匂わせる愛着、心の葛藤が描かれていたり、従兄弟同士の情愛が描かれたり、情念の炎と精神の絡み合いなど、これは時勢に関係なく、人が一人以上いる空間なり場ではどこでも不思議な感情の流れが起こりえるので、普遍性を持っていると言えるのでしょう。
特に昭和10年から15年という大戦に向かう、あるいはすでに中国との戦争が始まってさらに奈落へと突き進む日本の、東京のとある落ち着いた階層の一家族を舞台にしています。視点は高校生の女子学生です。大人になりきらない蕾の少女の視点から家族の姿が語られていきます。もちろん時勢は忍び込んできます。戦争下の日本の庶民の姿です。
以下にあらすじが紹介されています。
私の中の見えない炎
おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリーhttps://ayamekareihikagami.hateblo.jp/entry/2014/02/15/193730
「婚約者(小林薫)が満州に駐在している主人公(田中裕子)は、紀元二千六百年記念行事の夜に暴漢に襲われ、左翼運動に携わる男(四谷シモン)に助けられる。主人公はその男に惹かれて彼のアパートに出向くが、ある日警察に踏み込まれる。
メインの相手役は小林薫ではなく四谷シモンで、四谷はこの後のシリーズに常連として登場する。恋する女性の不安定なさまを田中裕子が好演し、以後本シリーズのみならず久世作品に多数出演することになった。雪降る夜に燃える恋情。踏み込んだ恋愛の描き方はこれまでの作品にないもので、寺内脚本の面目躍如である。
娘の気持ちに気づいて揺れ動く母役の加藤治子もさすがに見事。妹役は、映画『ドレミファ娘の血は騒ぐ』(1985)に主演したばかりの洞口依子。
物を落っことしたり、控えめにだが喜劇的なアクションが入るところが久世作品らしい。冒頭の桜の人工美も印象的。左翼運動は後年の『終わりのない童話』(1998)でも描かれた。」(上記のサイトからの転載です。)
このサイトを見て改めて、向田邦子作品の脚本家や演出家に関心がいきました。演出の久世光彦さん、脚本の寺内小春さんの才能も大きいのですね。寺内さんの脚本に男女の微妙な心の動きが強調されているのですね。「麗子の足」でもそうだったのですが、意外とセクシュアルな人間の本能と観念の葛藤が描かれているように感じます。印象です。
この作品で婚約者は、満州に派兵されている海軍の将校でしょうか、戦時状況の悪化を肌身で感じているゆえに婚約解消を文子に申し入れるのですが、文子は仮に戦死によって未亡人になるにしても結婚したいと述べます。婚約者は再考を約束して満州の軍務に戻るのが出だしです。そうした状況で紀元二千六百年記念行事の夜、日本が2600年祭という祝賀の夜家族とはぐれて、家路を急ぐ途中、男に空き家に連れ込まれ強姦される矢先に足の悪い杖をついて歩いていた貧乏作家の男に助けられる筋書きです。男は手に怪我をしていました。渡されたハンカチから彼の所在を突き止めた文子は、お礼に訪ねて、怪我のために熱発していた男の介護をすることになります。セリフに「見たのですよね」などが、とても生々しいところがあり、またその事件を通して文子の変化が徐々に形を帯びていくのは、妹の目からのナレーションで色っぽいなどと語られます。
ワーグナーなどのレコードを聴く作家の安アパートに特攻が踏み入り、文子も検挙されるのですが、元軍人で戦死した父親に免じて、また詳細が明らかになり母親と家に戻ります。事情が飲み込めた母親加藤治子の狼狽ぶりはしかし、軍人の妻としての誇りと慎みを表層的に生きながら、自らの女としての炎をこの物語は描いています。
満州に戻るという作家が訪ねてきた時、婚約者がいますからと玄関で言い放つ母親に対して、文子の感情は高揚していることが分かります。そして、何気ないお正月がきて、婚約者は戻ってこなかったのですが、作家の男が東京を発つという日の日曜日、文子は今日はおそくなるかもしれませんと母に言付けをしてでかけます。その後で婚約者からの速達が来ます。午後東京に戻りますと~。末の妹は祖母の家へ泊りがけででかけていて、母親と婚約者の将校が二人で夜を過ごすことになります。その場面は昔の戦死した夫を忍びながら若い将校と向き合う華やぎと、女としての一家の主を描いているように見えます。結局、雪の中電車は動かず、雪の中で文子は一夜を作家の男と過ごします。雪の中の足跡。戻る婚約者の足跡と文子の足跡~。その後戻った文子に朝風呂にいざなう母親は共に朝食を取りながら、婚約者が戻ってきて家を訪れたことを一言も言わないのです。
そこがどうしてかと、批評らしいものがあるかとネットで調べたら、尻切れトンボでした。この作品で久世光彦は演出家として何らかの賞を受賞しているのですが~。戦時中の男女の恋なり結婚のゆらめきを描いているのですが、母親が待ちかねていた婚約者の来訪を告げないということが、異常に思えたのですが~。また文子は元気よく朝ごはんを食べている姿で終わりです。「麗子の足」では、いとことの逢引の場面で引き離された女性は、いつも自らに好気の眼差しを向けている花作り(?)の男性のところへ自ら赴き、満たされなかったいとことの愛瀬を求めます。代理的な性愛を求めている姿は、自然の本能の流れだとしても、それはちょっと残酷な終わりだねで、脚本家と演出家のやり取りがあったということが、サイトの解説には書かれています。2・26事件に関与した軍医のいとこは死を迎えていました。
戦時下、男たちが緊迫した時代の空気の中で精神が突っ立ているように見える一方で、女性家族の雰囲気はどこかふんわりとしています。迫りくる空爆や遠くで血なまぐさい殺し合いがあるという事実は表に出てきません。日常の変化はそれでも徐々に押し寄せてくることがわかるのですが、雪は真っ白で美しく、人の営みは、何事もなく通り過ぎていくようです。しかし公安は動いていました。社会の秩序を壊す可能性のある者たち、時代の潮流《権力》に声を上げる可能性のある者たちは一人一人と姿をくらましていたのです。
日常を丁寧に描くとシュールになるんだ、と言った詩人の言葉が思いだされます。現在はまさにさらに過剰にシュール過ぎて、マトリックスの世界のようです。公がこわい時代(?)になっています。戦時下の1935年から45年に至る日本は現在に類似するのかもしれません。
今夜もまた救急車ががなり立てています!
特に昭和10年から15年という大戦に向かう、あるいはすでに中国との戦争が始まってさらに奈落へと突き進む日本の、東京のとある落ち着いた階層の一家族を舞台にしています。視点は高校生の女子学生です。大人になりきらない蕾の少女の視点から家族の姿が語られていきます。もちろん時勢は忍び込んできます。戦争下の日本の庶民の姿です。
以下にあらすじが紹介されています。
私の中の見えない炎
おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリーhttps://ayamekareihikagami.hateblo.jp/entry/2014/02/15/193730
「婚約者(小林薫)が満州に駐在している主人公(田中裕子)は、紀元二千六百年記念行事の夜に暴漢に襲われ、左翼運動に携わる男(四谷シモン)に助けられる。主人公はその男に惹かれて彼のアパートに出向くが、ある日警察に踏み込まれる。
メインの相手役は小林薫ではなく四谷シモンで、四谷はこの後のシリーズに常連として登場する。恋する女性の不安定なさまを田中裕子が好演し、以後本シリーズのみならず久世作品に多数出演することになった。雪降る夜に燃える恋情。踏み込んだ恋愛の描き方はこれまでの作品にないもので、寺内脚本の面目躍如である。
娘の気持ちに気づいて揺れ動く母役の加藤治子もさすがに見事。妹役は、映画『ドレミファ娘の血は騒ぐ』(1985)に主演したばかりの洞口依子。
物を落っことしたり、控えめにだが喜劇的なアクションが入るところが久世作品らしい。冒頭の桜の人工美も印象的。左翼運動は後年の『終わりのない童話』(1998)でも描かれた。」(上記のサイトからの転載です。)
このサイトを見て改めて、向田邦子作品の脚本家や演出家に関心がいきました。演出の久世光彦さん、脚本の寺内小春さんの才能も大きいのですね。寺内さんの脚本に男女の微妙な心の動きが強調されているのですね。「麗子の足」でもそうだったのですが、意外とセクシュアルな人間の本能と観念の葛藤が描かれているように感じます。印象です。
この作品で婚約者は、満州に派兵されている海軍の将校でしょうか、戦時状況の悪化を肌身で感じているゆえに婚約解消を文子に申し入れるのですが、文子は仮に戦死によって未亡人になるにしても結婚したいと述べます。婚約者は再考を約束して満州の軍務に戻るのが出だしです。そうした状況で紀元二千六百年記念行事の夜、日本が2600年祭という祝賀の夜家族とはぐれて、家路を急ぐ途中、男に空き家に連れ込まれ強姦される矢先に足の悪い杖をついて歩いていた貧乏作家の男に助けられる筋書きです。男は手に怪我をしていました。渡されたハンカチから彼の所在を突き止めた文子は、お礼に訪ねて、怪我のために熱発していた男の介護をすることになります。セリフに「見たのですよね」などが、とても生々しいところがあり、またその事件を通して文子の変化が徐々に形を帯びていくのは、妹の目からのナレーションで色っぽいなどと語られます。
ワーグナーなどのレコードを聴く作家の安アパートに特攻が踏み入り、文子も検挙されるのですが、元軍人で戦死した父親に免じて、また詳細が明らかになり母親と家に戻ります。事情が飲み込めた母親加藤治子の狼狽ぶりはしかし、軍人の妻としての誇りと慎みを表層的に生きながら、自らの女としての炎をこの物語は描いています。
満州に戻るという作家が訪ねてきた時、婚約者がいますからと玄関で言い放つ母親に対して、文子の感情は高揚していることが分かります。そして、何気ないお正月がきて、婚約者は戻ってこなかったのですが、作家の男が東京を発つという日の日曜日、文子は今日はおそくなるかもしれませんと母に言付けをしてでかけます。その後で婚約者からの速達が来ます。午後東京に戻りますと~。末の妹は祖母の家へ泊りがけででかけていて、母親と婚約者の将校が二人で夜を過ごすことになります。その場面は昔の戦死した夫を忍びながら若い将校と向き合う華やぎと、女としての一家の主を描いているように見えます。結局、雪の中電車は動かず、雪の中で文子は一夜を作家の男と過ごします。雪の中の足跡。戻る婚約者の足跡と文子の足跡~。その後戻った文子に朝風呂にいざなう母親は共に朝食を取りながら、婚約者が戻ってきて家を訪れたことを一言も言わないのです。
そこがどうしてかと、批評らしいものがあるかとネットで調べたら、尻切れトンボでした。この作品で久世光彦は演出家として何らかの賞を受賞しているのですが~。戦時中の男女の恋なり結婚のゆらめきを描いているのですが、母親が待ちかねていた婚約者の来訪を告げないということが、異常に思えたのですが~。また文子は元気よく朝ごはんを食べている姿で終わりです。「麗子の足」では、いとことの逢引の場面で引き離された女性は、いつも自らに好気の眼差しを向けている花作り(?)の男性のところへ自ら赴き、満たされなかったいとことの愛瀬を求めます。代理的な性愛を求めている姿は、自然の本能の流れだとしても、それはちょっと残酷な終わりだねで、脚本家と演出家のやり取りがあったということが、サイトの解説には書かれています。2・26事件に関与した軍医のいとこは死を迎えていました。
戦時下、男たちが緊迫した時代の空気の中で精神が突っ立ているように見える一方で、女性家族の雰囲気はどこかふんわりとしています。迫りくる空爆や遠くで血なまぐさい殺し合いがあるという事実は表に出てきません。日常の変化はそれでも徐々に押し寄せてくることがわかるのですが、雪は真っ白で美しく、人の営みは、何事もなく通り過ぎていくようです。しかし公安は動いていました。社会の秩序を壊す可能性のある者たち、時代の潮流《権力》に声を上げる可能性のある者たちは一人一人と姿をくらましていたのです。
日常を丁寧に描くとシュールになるんだ、と言った詩人の言葉が思いだされます。現在はまさにさらに過剰にシュール過ぎて、マトリックスの世界のようです。公がこわい時代(?)になっています。戦時下の1935年から45年に至る日本は現在に類似するのかもしれません。
今夜もまた救急車ががなり立てています!