志情(しなさき)の海へ

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「フーコーとエロス」「江戸文化における大奥」など「遊郭と芸能」周辺文献や論文を読んで過ぎる日!

2012-08-04 09:19:06 | 博士論文資料集

         (シロガシラが番《恋人》を呼ぶ声が聞こえる日、孤独な闘い、君に会いたいが会えないね!夢で会おうかな?)

コンセプトのやり直しで遊郭論、都市論、ジェンダー・セクシュアリティーの論文や文献を読んで過ぎる日、何も見えてはこない。ただぼやっとした軸が見えてきた。フーコーの性の歴史三巻は急いで読んだが、中身を吟味しているかというと怪しい。フーコーとフェミニズムの位相はどうかと気になりその辺の論文を読んでも今いち、了解できないところがある。ギリシャやローマの性の政治学、管理などのシステムは丁寧にフーコーの論を解説した論文もあり、概要はつかめてもそれが沖縄の家族制度と遊郭の位置づけとどうからむのか?

婚姻の装置と性的欲望の装置=セクシュアリティーの装置について、ギリシャやローマを取り上げキリスト教的体系を逆照射したフーコーの倫理とエロスは、おおかた理解できたとしても、ではアジアや日本、沖縄のセクシュアリティーの装置はどうだったのか?ということになる。

それからフーコーが論じたギリシャにしても女性たちは男と対等な存在ではなかったゆえに、遊び女、妾、家庭内奴隷男女、生殖のための妻、そして少年愛である。実に男たちにとって都合のいい性行為の華やかさがあふれている。エロスとアガペーの論もあるが、性行為のない愛を上位におくプラトンやソクラテスの論など、中庸が奨励され、一夫一婦制が維持されるとある。しかしそこからあふれる性の饗宴への論はあまり展開されない。

告解によるキリスト教の管理支配の構図は現在に続く西欧の性の管理の一環としてみたら面白いが、女性性の収奪などについて一行も見えない。それよりネットで読んだ論文、「江戸文化における大奥」by アン・ウオルソールが面白かった。誰でも読める。

「男根主義的社会においてすら女たちは消費者として登場する。~支配者の権威と庶民との危険をはらんだ関係は非関与的にはならなかった。その代わり、金によって媒介されるようになればなるほど、あらゆる階級の女たちは、女のものである内の世界を、男のものである外の世界に結びつける消費の行為主体であるとともに消費の対象として、包摂されるようになっていったのである。」結論が面白い。斬新なイメージがした。

やはり対象にストレートに向きあう他ないのである。エロス的身体?『癒しとイヤラシーエロスの文化人類学』もある。やれやれ!琉球王府にとっての遊郭の位置づけ、近世から近代へ、近代の貸座敷制度への転換があり、多くの女性たちが遊郭に取り込まれていった近代!辻遊郭は近代沖縄芸能の母胎だった!それを実証しないといけないのである。ターゲットは明快だった!


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