(萌えの春!)
論文を書くために右往左往で、今頃あわてている。自身の力のなさに唖然としながらもあれも、これも、それもやらないといけないと、あたふた状態。
「沖縄演劇の近代化」(英文)「沖縄の伝統芸能と西欧受容」(英文)「男性中心沖縄芸能史の中の女性芸能者」(和文&英文)「辻遊郭、近代芸能、ジュリ」「大城立裕作品論」「沖縄演劇論」「沖縄文藝に見る女性表象」(ヴァリエーションはいろいろ)。アメリカ小説に描かれた沖縄を渡久山さんが今年から3年、科研で研究するとのことはうれしいニュースだった。『八月十五夜の茶屋』はまだまだ論として深められねばならないと考えている。いい論は書かれているので、英文でも、それらを集大成できたら、という願望も持ち続けている。
沖縄における芸能や演劇の西洋受容は正確には、戦後始まったと言えようか?敗戦によってもたらされた西欧受容、その前から近代においては日本経由での西欧の受容が見られるが、大方は日本の動向に重なっていくところがみられる。戦後、大胆な変革がそこにあったことは、非常に大きい。←そこをどう描くかだが、その中に「八月十五夜の茶屋」を入れるかどうか?
ところで、すぐれた修論を二本読ませていただいた。それらがあまり表に出ない、ということが「もったいない」と思う。大学が配慮して修論、卒論の中でも秀作をジャーナルで紹介しているが、それも数が限られている。眠っている卒論、修論がどんどん公開され、社会に還元されることを念じる。
少なくとも、各大学は年毎の卒論や修論の題名、執筆者、所蔵場所を開示すべきだと考える。今年から文科省は博論に関しては、出版の意志がないかぎりすべてインターネットで公開、の制度に踏み切った、ときいた。わたしは博論を可能なかぎり出版したいと考えているが、それも資金が必要だ。
(つぶやき)の前に論文執筆だが、無駄が多いのかもしれない。ブログ更新のために時間を費やしているのも事実!「早くやめた方がいい」と身近な若者に言われ続けているが、自分のライフ・ヒストリー(life herstory)だと開き直っている。アクセス数が一日500人前後と増えてきているのも事実で、時に500を超える日々も多くなった。それゆえに辞められないのかもしれない。可能な限り日々更新を続けるつもりー。ツイターが最近はおろそかになっている。
本日は、当方の「愚息」ならぬ、開講科目の履修生が、不正行為をおこなったために、貴ブログにひさしぶりに、おじゃました次第です。
おはずかしいはなしですが、「コピペ」等を厳禁している期末レポートに、昨年刊の拙著への、過分なおほめのことばを、窃用する、ふこころえものがおりました。さきほど、メールで叱責いたしました次第。
さて、修士論文・卒業論文のウェブ上での公開は、原則賛成です。実際、学生に了承をとったうえで、PDFによる公開をはじめる大学がふえつつあるとおもいます。
ただ、拙稿をふりかえるに、卒論・修論のほとんどは、玉石混交といっても、まずは「石」。それを、みがいて卒業させるというエネルギーを全国の大学教員はもっていないとおもいます。卒論・修論は、あくまで、学生を拘束するための制度にすぎず、それを「よむにあたいする水準」にまでひきあげる。ときに、教員1名あたり20人前後といった、無茶な指導体制がまかりとおる現在、ウェブ公開を自明視するような状況ではないかとおもいます。
「コピペ」があったのですか?バレないと思うのですね。お久しぶりです。今年のテーマは何でしょうか?危機言語学会はエントリーですか?
「石」からまなぶというのは、おっしゃるとおりですが、デタラメ放牧をさらして、平気なのは、羞恥心欠落というべきでしょう。そして、公開していい水準の卒論ばかりにするには、ゼミ生を5人ぐらいまでにしないと、ムリがくる。そんなぜいたくな指導体制、くめっこない……。こんな感じか。
実は、本日も、また不正行為が発覚しました。学生がかけっこない、リズミカルな美文。というか、20前後のわかものがもちあわせることがまれなボキャブラリー。バレることにきづかないのは、欠席するばかりで、当方の授業をきいていない連中だけだとおもいますが、残念ながら、毎年数名は……。