湿原に建つ北国のラブホテルを真ん中に据えた7つの物語が、網の目のように絡んで、人間の生きる哀歓が浮かび上がる。ラブホテルが生き物のように誕生し、衰微し捨て置かれる。さらっと読んだが、桜木さんは巧妙に物語をしつらえたのである。作家の構成力と人間の心や関係性の微妙な綾まで描いていくその描写力に驚く。さりげなく引きずり込む物語、人間の属性の核になるものをさらりと料理にして出された感じでもある。人と人の関係性のどうしょうもないそこにしか至らなかったような沼のような落ち所があるのだろうか?北国のラブホテルに対して南国のラブホテルはどうなのだろうか?東シナ海の光り輝く海が見える華麗なラブホテル街が並んでいるのかもしれない。昼でも夜の夢幻を仕立てる人間の欲望の体系なのだろうか?7つの物語の中で最も衝撃だったのは「本日開店」である。貧乏寺の住職の妻がお布施と引き換えに、檀家の有力者と体を繋げる(これが著者があえて表現する男女が一つになることの言い回し)こと、それが20も年上の住職が不能だとしても、ショック療法のように(渦へ引き込まれるように)目で追いかけていた。もはやこの世の物語は実相をはるかに越えられないのかもしれない。すでにして億の億の生の物語がうず高く積もっていく。その中で心に、意識にぐさりとくる物語の結晶(作り物)は、そう多くはない。しかし、誰もが実は非常に身近に感じる物語が編まれると人は共感の中で生きていることの悲哀の中の小さな喜びに浸れるような感じもした。物語を書きたくなったのは確かだ。しかし物語を紡ぐのはまた才能なのだという事実は歴然としてそこにあり続ける。一人一人の人生の物語は確かに物語そのものの哀歓をもってそこにあり続ける。あなたのこの世の地獄と天国、悲しみと歓び、わたしのものーーー。伝わらないことばと修羅、痛み、かすかな歓び、矜持、憤懣、諦観、希望&絶望、それでも歩く拠り所、明日を信じて歩いて(生きて)いるようにできているのか否か、直裁に否定されることばの前で怒りが爆発するモメントも、それでも、空虚さが漂う。人が心の底から求めているのは何だろうか?認知され愛されること、愛すること、限りある命をもった者たちの命の燃焼、残されるものは何だろう。「繋ぐ」「繋がる」「繋げる」、これらのことばがすんなりと写したもの、そこに震える何かがあるのかもしれない。
遊郭やジュリ(遊女)が脳裏に住み着いて久しいのだが、遊郭=ファンタシーの非日常空間、娼婦は解放された自由な女たちと言い切ったかの著名な女性評論家のFREEDOMも響いてくる。何をもっての自由なのか、規範を逸脱したトポスのもつダイオナイシアン的な陶酔の共犯・共有の再生なのか、んんん、限りなく人は規範のなかで反規範的繋がりを求め続ける生き物なのかもしれない。破たんも暗闇もあるが、大勢が押しかけた戦前のジュリ馬祭りのあの祝祭空間は、まさにXの賛歌であり、美を夢幻を求める人の属性そのものだったのかもしれない。