体罰自殺について思ったこと:
自殺した17歳の少年の自殺に到る経緯を新聞で読んだのですが、ご両親は「嘘でしょう」と、信じられない気持で、悔しさでいっぱいでしょう。大切な息子さんを失った悲しみの深さはもういたたまれないものだと思います。しかし少年はなぜ自殺の前にそれでも生きる勇気を振り絞ることができなかったのだろうか?やさしいお母さんは毎日お弁当を作って持たせていたのですね、そのお母さんの優しさを打ち砕くほどの自我を壊滅させる暴力があったという衝撃に驚きます。
なぜ?顔が膨らむほどに生徒に暴力的行為を続けた教師の姿が悪魔にみえます。暴力によって徹底的に他者の自我を、誇りを生きる勇気を打ち砕いたその鞭の手が恐ろしい金属バットに見えます。
人間が人間を間にする装置があります。相手の自我を打ち砕くことです。人間から人間の誇りを奪うことです。徹底的に痛めつけ、ロボットのように意思のない状態まで自我を叩き潰すのです。人間としての個としての誇りを痛めつけ、無に物の次元にまで引きずりおろすのです。すると誇り高い自我をもっている人は自らがそのまま殺されてもその殺しそのものも受け入れるような心理状態(境界)に陥ります。そこで生きていくには暴力を振るう人間の意のままになることによる生存意識(欲望)の獲得ができることはできます。それも場所と立場、置かれた環境によるのでしょう。関係性の絶対性の罠を壊すエネルギーが必要になります。無化される物化される自我を守る闘いに勝利できるかどうか、あるいはかろうじてそれをくぐり抜ける(確保する)ことができるかどうかは、生きるエネルギーが問われてきます。(この文章を書きながらDVなども念頭に入れています。)
強固な自我を持った人間の場合、自殺は不幸な結末でもそれは誇り(自我)の発露ということになります。17歳の少年は自らを此の世から抹殺することによって死により暴力の罠を喰いちぎったのです。ある面、それは勇気ある行為になります。潔い死、しかしそれが自らを活かす行為・結末ではありませんでした。自死より他に継続する暴力連鎖を壊す力がなかったのです。自らを活かす装置をほかに考えることができなかったという事が、悔やまれます。若い17歳の精神(心)を追い詰めたことそしてそれに十分対処ができなかったことが教育制度の欠陥ということになります。どれだけ教育現場が開かれるか開かれていくかが問われます。それはどの組織体でもそうだと言えるでしょう。やはり痛いと自由に声に出せる環境、それらの声に耳を澄ませる環境が必要ではないでしょうか?
日本の学校教育の陥穽・ブラックホールの氷山の一角かもしれません。それは社会の弱者いじめの一環であり、社会の世相の照り返しであり、平和に見える教育現場に潜む暴力システムの明白な姿でもあったのですね。教育行政のピラミッド構造でもあり、教育現場の問題(組織の歪み)は学校運営の落ち度であり管理能力の欠如という烙印がおされ、学校そのものの対社会的評価が下がります。その組織の内部全体の問題にもなります。しかし若い尊い命を守ることができなかったという事実が問題です。
暴力がはびこる教育現場がまたスポーツの競争原理、名誉趣向に基づいていたということ、序列化の競争原理が貫かれています。ネオリベラリズムの弊害がそこに表にでた事件でもあったのだと言えます。教育の競争論理、スポーツの競争論理・レースが根にあります。評価システムのピラミッド性もあります、固有性ではなく序列化された学校の評価体制、人間の評価体制のブラックホール、まさにその闇が脈打っている日本社会だと言えるでしょう。透明な競争原理の中で一人、一人と殺されるか自ら自らを殺していかざるをえない社会の仕組みはグローバル化(世界的規模の競争原理)に突き動かされているとも言えるのでしょう。透明な競争社会のシステムに乗れない者たちは落ちていくより他ない、という酷さ(残虐さ)が社会の大きな器としてある社会構造になっています。透明な競争から足を踏み外した者たちを大きなセイフティネットの器ですくい上げるのではなく、その底にあるのは大きな人間を切り裂くナタが刺さった器がありつづけるのです。
恐ろしい社会です。民主主義の仮面をかぶって人が声を出せない。痛いのに痛いと大きな声を張り上げることのできない社会になっているのですね。痛い、痛い、あなたのためにわたしはとてもとても悲しく痛いのです。だからやめてください、と言えない社会なのですね。それが一見暴力と全く縁も由もないように見える教育現場で起こっているのです。声を受け入れる場や空間が教育現場にないことをまた示しています。
痛い。痛い。やめてください。と言えない社会です。わたしはこう思いますと言いたいことが言えない日本社会であり、個個人の声を、思いをすくい取れない教育であり、社会になっているのですね。これだと権威なり権力の位置にある人間たちが、いくらでも自らの力に依存する者たちを精神的に肉体的に弄ぶ、刃を振るうことがいくらでも可能な多くの大小様々なピラミッドが無数に存在する社会ということです。真に痛く魂の血を流す者たちがすくわれる装置がない社会ではないと思いたいのですが、公僕と言われる公務員や教職員のありようが問われます。公僕ゆえに公民(一般民衆・住民)の福利と安寧のために働く者たちの良識がまた問われてきます。
人間を殺すための公の仕組み(役所や教育機関)ではなく、人間を活かす方法を理念や倫理を持たない仕組みゆえにすでに10年間に30万人以上(ひょっとしたら50万人以上)の人間が自分殺しをする国になっているのですよね。恐ろしい社会です。見えない暴力支配が網の目のように網羅された日本という国なんですね。
(ノスタルジアのように、若かった頃はよくぶん殴られたがそれだけで死ぬかと啖呵を切る声もありますが、体罰を容認する声です。しかし身体への暴力を是認することはできませんよね)
***********以下は新聞記事からです!***********
自殺前日の昨年12月22日に同校で行われた練習試合。顧問は試合中にミスをしたとされる生徒の顔を平手打ちした。「実力があるのに発揮できない。気持ちを発奮させるために体罰的な指導を行った」という。
生徒は午後9時半ごろに帰宅し、母親と明るい声で「弁当、おいしかった」などと会話したが、「今日もかなり殴られた」と告白。口には切れた痕があった。
夜が明けた午前6時半ごろ、母親が2階で首をつっているわが子を見つけた。ルーズリーフで書かれた家族宛ての遺書、顧問宛ての手紙があり、遺書には「育ててくれてありがとう」という感謝と、自殺をわびる言葉が書かれていた。
顧問宛ての手紙には「たたかれ、つらい」と記されていた。生徒は数日前に手紙を書き、周囲に見せていた。「それを見せたら、また怒られる」。そう言われて思いとどまり、手紙を渡さないまま自殺を選んだ。