公演の経験は面白い、本番に向けた緊張感はいい!国立劇場スタッフの皆さま方の真摯な思いに感謝したい。舞台を想像する上で劇場スタッフの方々の技術力、感性、総合的な美意識がいかに大切かという事、またコミュニケーションの大切さについて改めて認識させられた。
この公演は本番前日のドレスリハもなく、本番当日に一度舞台で通すだけの厳しい状況での取り組みだった。朝9時半に入り、美術の新城栄徳さんが「染屋の恋唄」のセットの調整をし、新垣正弘さんがその助っ人に入り、彼が舞台監督のような進行になった。吉屋チル―が始まるまで私は進行を支持し、後は音響BOXに入り、担当の富田さんにいろいろ教えてもらって、DVDや音響のセットの準備をした。それだけで時間が結構かかる。昼2時過ぎには通しをやるが、それにはまだ手直しや調整が入る。本番舞台はそれでもメイクが入り、着付けをすると80歳の玉木 伸さんもこの間の役者の味わいが舞台ではじけた。役者の実体験の凄さがそこにはある。
急ごしらえのアンケートとパンフレットは、当日、高江洲義寛さんのご次男(東大法学部の学生、Yさん)と友人のコンピューター・サイアンス専攻のヨハンさん(オーストリア人)が形を整えてくれた。アンケート用の鉛筆をはさみ、パンフを折り曲げて冊子にしてくれた。13ページの読めるパンフにはなった。広告を取って印刷会社に頼む時間などなかった。すべて個人で作成したものである。(でもアンケートがすぐ読めない状態!?)
舞台に立つためには助っ人の付き人がいる。舞台の黒子も必要だ。吉田さんには芝居役者の真栄田文子さんと、前川勝子さんが付いた。前川さんにはジュリ小の役でお茶を出す役もしてもらった。黒子は前川勝子さん、玉木 伸さんの奥さんが傍についた。また渡名喜さんも手伝ってくれた。彼は辻の関連で以前から何かと助けてもらっている。文化運動に関心を持ちながら沖縄の独自性を追求している。
詳細をもっと書きたいが、今からまた新作お能を見に行く予定!
≪以下はパンフに紹介した文章です。県立図書館に寄贈してあります。もし引用などされる方は図書館に寄贈した手造りパンフを参照すること!ここでは一部抜けたものがあります!≫
尚、以下のパンフの中身は科研報告書「組踊の系譜」(2009・4-2012.3)の中に収録されます!
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「花染ぬ手布」―遊女(ジュリ)の表象について
≪はじめに≫
この沖縄芝居の遊女(ジュリ)をテーマにしたオムニバス作品に着想を得たのは吉田妙子が若いころ演じた「染屋の恋唄」(1984年5月・名護北部会館)のDVDを見たのが切っ掛けである。丁度国立劇場おきなわ大劇場で八木政男演出の「染屋の恋唄」(2009年10月24日)を見た時、吉田がジュリのマカテー役宮城園美の所作や座り方に対して「以前の型と幾分ちがうようね」と話したことがその導線になった。「吉田妙子が演じた舞台を見たい」ということで、見せていただいた。違いに驚いた。どう異なるのかというと、写真を紹介したい。
マカテーの座り方は右足の片膝立ての姿勢だが柔らかい。これは韓国の妓生(キーセン)の所作にも似通っていてなまめかしさが感じられる。「組踊」の片膝立てとも似ているが、幾分片足は横に引き寄せている。垂直ではない。斜めに奥ゆかしい風情である。着物は白。
*写真紹介(吉田妙子のマカテー)
次の写真は同じマカテーを演じる瀬名波孝子の座姿である。彼女の座り方は蚊帳の中から出た後正座で通す。そして浦太が正直に告白した後「花口節」で左足の片膝を立て「――里前が罰ぬど怖るさぬ むしか里前に約束事余所と済まち無ん有りば 貴方ぉ 吾ん妻しみせみ」と告白する。その場面と煙草を吸う場面で艶のある所作がなされる。一貫して正座ではなく右足片膝立ちが目立つ演技・所作が吉田の演技で、告白の場面などで左足片膝立ちをする瀬名波と微妙な違いがある。また煙草を吸う仕草のなまめかしさの違いもあり興味深い。
戦後は大伸座の大宜見静子が初めて演じているが、もちろん戦前そして戦後できた劇団などでジュリの役柄を親泊興照が自ら演じまた座員に指導していた事はありえることで、(花風の優れた踊り手であった。「花風」と云えば興照の一番弟子が伊波キヨだった)その興照芸を踏襲したのが吉田妙子の立ち居振る舞いである。吉田が初めてマカテー役を演じたのは親泊元清座長の【ちとせ座】の時代、1954年である。その後久高将吉座長の【俳優座】に所属し、そこで久高の相手役としてマカテーを演じている。
この「染屋の恋唄」は1930年代に高江洲紅矢が舞台化したことは推測できる。沖映演劇の第一回公演は1965年のことで、瀬名波孝子がその役を演じたのはその後のことだということになる。おそらく瀬名波の芸の影響を受けた宮城園美のマカテーの演技にこの片膝立ちの吉田妙子のような一貫した所作がないのは無理がない。そこで気になるのは、戦前の辻のジュリの女性たちの立ち居振る舞いである。正座が普通だったのか、それともこの片膝立ちが日常の中にあったのか、気になって尋ねた。「吉原などの花魁の座り方の模倣ではないか」とーー。つまり花魁の座り方は「右膝を畳につけて、左膝をやや立てて、右手の肘を張り、左手で袖口をつまむという折敷という所作」だというが、それではないかと執拗に尋ねたら、親泊興照の立ち居振る舞いにも片膝立ち姿があり、また「ガンチョー小」という辻を舞台にした芝居の中で、男性でも片膝を立てた座り方をしていて、特に辻のアンマーたちは貫録があり片膝立てだったという。
*写真紹介(瀬名波孝子のマカテー)
吉田妙子と瀬名波孝子の座り方などに微妙な差異があり、ジュリや当時の琉球の人々の立ち居振る舞いが気になっているのだが、それが舞台表象にも表れているのは自然と言えよう。組踊の男役や女役が明らかに片膝立てだという事と当時の士族層の立ち居振る舞いにも関連があるかどうか、今後の課題にしたい。
ところで吉田妙子は高江洲紅矢の「渡地物語」もよく演じてきた女優である。昨今は名作歌劇の「泊阿嘉」「奥山の牡丹」「伊江島ハンドー小」「薬師堂」「中城情話」と並び好んで上演されている。ご本人が「遊女(ジュリ)役をたくさん演じてきた」と話すようにその中には「吉屋チルー」も含まれる。そして戦後沖縄の娼婦もまた演じてきた。1990年、現代劇にも挑戦する吉田妙子と、私は「嘉間良心中」(吉田末子作)を演劇作品として世に問うた。それ以来、沖縄芝居役者吉田妙子には一目置いてきたのだが、長堂英吉作「ランタナの花の咲く頃に」の舞台でも米兵相手の娼婦役を大胆に演じていた姿が脳裏に浮かぶ。そうした思いの中で今回の【花染ぬ手布】-遊女(ジュリ)の表象のオムニバス作品を舞台にのせることになった。
≪花染ぬ手布≫
花染ぬ手布は女性が自ら織って花染をし、思う里之子に手渡す、それが近代沖縄で誕生した雑踊の中では普段に見られるようになった。その代表的な踊りが「花風」であり「カナヨー天川」「むんじゅる」などである。古典女踊の中には登場しない。あくまで百姓やジュリの女性の愛の象徴のように登場するのである。いわば女の愛の証のような品である。
≪染屋の恋唄≫
この歌劇の主人公が「カイヤジュリ」や「分持ちジュリ」と呼ばれた荒神ぬ前のマカテーである。つまり琉球王府時代、首里の御殿々内の里之子方、御大名の方の相手をする高級ジュリだったのである。薩摩在番奉行所のことをウカイヤ(御仮屋)と称したのでマカテーは在番役人も相手にしたジュリである。
ジュリとはいえ高値の花に浦太は恋をする。浦太は偶然マカテーが落とした花染手布を拾い、それを返すために初めて会ったマカテーに恋焦がれるのである。それ以来、マカテーからもらった花染手布を肌身離さず、3年間染屋の奉公に励み思いをかなえる為に、首里の殿内の侍と偽って一夜をマカテーと共にすることになる。いわば男の純愛とジュリ花の女の志情(しなさき)が実るハッピーエンドの物語で、戦後地方巡業が華やかだった頃とても喜ばれた歌劇だったと吉田妙子は語った。
浦太が初めてマカテーに会った際の二人のつらねが恋の行方を暗示させる。
浦太「及ばらん者と知りなぎな 我身ぬ 忘れがたなさや無蔵が姿」
マカテー「及ばらんてぃやい 諦めゆみそな 思みば何事ん 成いるさびる」
浦太「たんでぃ くぬ際ぬ、形見我ね欲さん」
マカテ「花染ぬ手布 情うさぎらば 漕じ出ぢてぃいもり初恋の小船」
浦太「二人手ぅ連りてぃ乗やい行く先や」
マカテ「儘なゆる島ゆ 見当てぃさびら」
花染ぬ手布は「情け」そのものである。その後3年間、浦太は肌身はなさず思い続けるのである。ここでマカテーが「及ばらんてぃやい諦めゆみそな、思みば何事ん成いるさびる」とつらねで答えているその台詞は「泊阿嘉」の船頭の台詞に重なる。それはマカテ自身への励みのことばにも聞こえるが、人を慕う(恋する)数多の者たちへのエールそのものに思える。
この「染屋の恋唄」にはモデルがある。古典落語の「紺屋高尾」である。花魁の最高位の高尾汰夫と染屋職人久蔵との純愛である。花魁道中の高尾に恋した久蔵は3年間で9両のお金をため、恋患いを見てくれた医者が1両を足して10両もって吉原に行く。
そこですべてを正直に告白するはめになり、それに感極まった高尾が「源平藤橘、四姓の人に枕を交わすいやしい身を、3年も思いつめてくれるというのは、なんと情けの深い人か、こういう人に連れ添ったら、よし煩っても見捨てることはないーー、そして年季の明けるのが来年の2月15日なので、久蔵さんの所へたずねて行きます。私をもらってくれますか」という。久蔵は「ありがとうございます」と言って高尾を拝む。落語の物語はこの人情談話になっている。実際の紺屋高尾のモデルもいたようである。映画の題材にもなっている。
さて高江洲紅矢はどこでその落語を聞いたのだろうか?仲井真元楷が書いた【明治・大正・昭和名優伝】(琉球新報、1966年)によると、高江洲の作品は「染屋の恋唄」「農民口説」「渡地物語」「出陣」「朝」「戦後版ス―ヤーのパアパア」などである。その中で現在上演されているのは2作品だけである。そしていつ初演されたのか、詳細は分からない。ただ高江洲が1937年2月に南洋から帰って阪神沿線で巡業した事を仲井真は書きとめている。「一二三(ひふみ)座」と称して阪神から鶴見、川崎の京浜沿線まで移動して巡業している。翁長小次郎、奥間英五郎・キヨ子夫婦、島正太郎らが座員である。吉田妙子によると奥間キヨ子は万能役者だったという。そしてその相手役は島正太郎だった。高江洲は座長として一座を束ね、その後また南洋に行き戦後沖縄に戻り【梅劇団】の幹部になった。その後大宜見小太郎率いる【大伸座】に迎えられている。その経歴からすると戦前、阪神や京浜で巡業中にこの紺屋高尾に出合った事が十分考えられる。それを歌劇に仕立てて南洋あたりで興行したのではあるまいか。そして戦後「大伸座」でマカテーを演じたのが大宜見静子である。
それにしてもこの歌劇の歌が面白い。筋立ても「いやしいジュリ花でも浮世の義理を忘れません」とマカテーは浦太の真心・純愛に心揺り動かされ、将来を誓うのである。そして花染の手布にお金を包んで持たす。年季晴れて夫婦になる時のためにとーー。
歌はセンスル節、遊びションガネー、県道節、あかちら節、かなやしな、昭和節、早口節、新昭和節、トーガニー、揚高耶節、牧港節、与那国ションガネーと盛りだくさんである。
それが味わい深く飽きさせない。
≪渡地物語≫
この作品も「染屋の恋唄」の構成に似た歌劇である。3年の首里殿内の奉公を終えて渡地から久米島の船に乗る所を乗り遅れた浦太がそこで少し酒に酔った美しいジュリのチル小に出会う。彼女は騙しだまされて、今は辻から渡地まで落ちてきた女である。その美貌に惚れた浦太は一夜を共にして、親に渡すべき金を総べて失い、茫然自失、自殺せんとする所、チル小の情けに救われる。浦太の純情に将来を夢見たチル小の思いは3年後かなえられる事になる。
この歌劇の中で組踊「手水の縁」が言及される。桶から互いに水を飲み合うことになる若い男女の愛は、「手水の縁」の愛の象徴が暗に秘められていて、チル小の教養の高さがまた偲ばれる物語になっている。組踊の「愛の系譜」が流れている。
所でこの作品の構成上で重要なのは「染屋の恋唄」もそうだが、相手の本音(真心)を試す場面である。染屋の主が、浦太が死んだと嘘をついて尋ねてきたマカテーの心を試す。また3年後、久米島の村を訪ねる際、チル小は自分の代わりに物乞いを自分だと偽ってよこし、浦太の真心を試す。嘘偽りがないかとーー。逆転の展開が物語の大詰めをより感深いものにしている。その辺の構成のよさがまたジュリを主人公とする両歌劇の醍醐味だと言えよう。庶民の痛み、思い、歓びが込められている。
≪吉屋チルー≫
今回、芝居の「吉屋チル―」に少し味付けをして平敷屋朝敏の「苔の下」を一部朗読することにした。オムニバスゆえに「苔の下」のすべてを舞台にのせることはできなかった。今後是非やってみたいと思っているが、今回はその触りの部分だけである。それゆえ不満を持たれる方もおられると思う。朝敏の「苔の下」は按司がよしやの後を追うように死出の旅路をするためまた食を断つという美しい純愛物語になっている。対して芝居の吉屋チルーは蔑まれた「物乞い勢頭」(ニンブチャー)と一夜を共にするチル―を残酷に描いている。金城哲夫の「吉屋チル―物語」は芝居より、より詩情が流れる映像になっている。違いは仲里按司に妻がいることである。そうすることによってチル―や仲里按司の心の綾に深みを与えている。しかし、チルーの悲劇的宿命は変わらない。彼女は蚊帳の中のニンブチャーを簪で殺し、自らも簪で自害する。
≪嘉間良心中≫
1984年、吉田末子が新沖縄文学賞を受賞した作品である。1990年に平識晶子脚本・演出で上演した。那覇のジャンジャン、名護市民会館、ヒューマンステージで上演し好評だった。主演は吉田妙子。彼女の体当たりの演技は、まだこの沖縄で乗り越えられていない。この舞台については大城立裕と佐々木薫の批評がある。佐々木の評を紹介したい。
さてこれらの4作品に共通するテーマは何だろうか?銭金と愛である。「染屋の恋唄」「渡地物語」「吉屋チル―」そして「嘉間良心中」四作とも銭金が大きなシンボルであり、そしてもちろんセクシュアリティーが大きな位置を占めている。金でSEXが売買できる世界が厳然としてそこにある。しかし人が生きる上で何が重要か?志情(しなさき)であり一途な純愛である。エロスや愛が生きる縁(糧)であることはいかなる状況・境遇にあろうと変わらないということが貫かれている。死・タナトスが常にそこにある。
「嘉間良心中」の娼婦キヨは戦後の沖縄を象徴する。キヨが若い米兵のサミーを道連れに無理心中する、その形相は孤独の極致とはいえ、隠喩としては多様に解釈できよう。アメリカへのリベンジとして受け取ることも可能かもしれない。女は命を産み育て、そしてまた破壊しえる怖さも内に秘めている。しかし古典組踊から現在沖縄芝居に至るまで、沖縄には心中というのはほとんどない。どちらかというと母と子の情愛が脈打っている。それゆえに沖縄の心象風景に異化効果をもたらすほどの衝撃が走った小説であり舞台だったと言えよう。当時多くの女性たちが見に来てくれた。58歳の娼婦キヨと若い脱走兵の物語が今でも感動を与えるとすると、それはなぜだろうか。
今回、改めて20年前の舞台録画を見て驚いた。 舞台上で娼婦キヨが吉屋チル―の琉歌をつらねで唱え、そして民謡でも歌っていたのである。その時、この四つの作品はつながったと思った。戦前のジュリの女性たち、そして戦後を生き抜くために娼婦になった女性たちに共有する志情(しなさき)がそこに滔々と流れている。そして女たちの命(思い)はこの社会の底辺を奥深く支えているのである。単に性の植民地と言い切ってしまえないものがそこにありえそうだ。 (2011年7月16日、記)
*このテーマは今後さら深めていく所存である。
吉田妙子 プロフィール
1935年 (6月13日)沖縄県うるま市出生
子供の頃からお芝居が好きで村遊びや祭り事に我を忘れて躍り出て、出演した。
1950年 朝日座入団、大和芝居「清水の次郎長」「お島仙太郎」「五人の母」「パラダイスの別離(現二見情話)」出演
1951年 真喜志康忠座長【ときわ座】入団。「伊江島ハンドー小」「夜盗の群れ」「決戦識名の馬場」
「救われた女郎」出演
1952年~ 親泊興照・鉢嶺喜次率いる【さんご座】入座。琉球舞踊や名作
歌劇「泊阿嘉」「ハンドー小」「奥山の牡丹」「平敷屋朝敏」「報い川」「中城情話」「渡地物語」など、
多く出演
1954年 親泊元清率いる【ちとせ座】入団。「染屋の恋唄」「今帰仁由来記」他出演。その後【金城幸盛一座】
【新生座】入団。
1955年 親泊元清率いる【ゆたか座】入団。琉球歌劇に出演
1956年 久高将吉率いる【俳優座】入座。「吉屋チルー」「染屋の恋唄」
など数々の琉球歌劇を共演
1958年 フリーで客演。舞台他テレビ・ラジオ出演。親泊興照琉球舞踊研究所【華扇会(琉扇会より現親扇会)】入門
1959年~ 沖縄テレビ「郷土劇場」出演
ラジオ沖縄「民謡の花束」「民謡廻り舞台」「東西歌合戦」
琉球放送「郷土番組郷土劇場」出演
RBC「今日うがなびら」「芸能バラエティーふるさとバンザイ」「民謡紅白歌合戦」
NHK 郷土番組出演「茶売やー」「渡地物語」「おばぁ街小を行く」。県外公演では国立劇場「日本の鬼」、
ヨーロッパ、アメリカ公演参加。前進座の「笛吹きカナシー」、オペラ「キジムナー時を賭ける」(東京)に出演
1968年~ 「浜育ち」比嘉正義さんと共演
「アカバナー」平安山英太郎さんと共演
創立三周年記念で劇団【潮】へ入団
1983年 新しいジャンルの一人芝居「道」に挑戦
1989年 沖縄タイムス芸術選賞 演劇部門奨励賞受賞
1990年~ 「嘉間良心中」「ランタナの花の咲く頃に」主演
沖縄芝居実験劇場「謝名原の乱」「嵐花」「アンマー達の夏」
「レイラニのハイビスカス」「トートーメー万歳」に出演
1990年 沖縄芝居「演」旗揚げー伝統的な沖縄芝居・新しいジャンルの
芝居を織り交ぜて公演
1992年 地域劇団東京演劇祭 文化庁芸術祭
東京三百人劇場 一人芝居「道」参加
1996年 名古屋NHKアクターズフェスティバルー一人芝居「道」参加1999年
沖縄県指定無形文化財琉球歌劇保持者認定
2006年 沖縄タイムス芸術選賞演劇・映像部門大賞受賞
2009年 「かじまやーカメおばぁの生涯」(栗山民也演出)出演
2010年 「かじまやーカメおばぁの生涯」(北谷ニライセンター)
2011年 「報い川」「豊年」(1月沖縄県伝統芸能公演)
「九年母の木の下で」(6月国立劇場おきなわ自主公演)
「花染ぬ手布」遊女(じゅり)の表象(7月国立劇場おきなわ)
≪映画&テレビ出演作品≫
【ウンタマギルー】(1991年高嶺剛監督)/【パイナップルツアーズ】(1992年中江祐司監督)/【ナビィの恋】(2000年中江祐司監督)/【遥かなる甲子園】(1995年大澤豊監督)/【月桃の花】(1996年大澤豊監督)/【豚の報い】(1998年崔洋一監督)/【風音】(2003年東陽一監督)/【深呼吸の必要】(2003年篠原哲雄監督)/【南の島のフリムン】(2009年ゴリ監督)/【やぎの冒険】(2010年仲村颯悟監督)/TV【琉神マブヤー】のおばぁ役/【ウエルカメ】(2009年NHK 朝の連ドラ)/【沖縄ドライバーズノート】(2011年1月14日NHKハイビジョン放映)/【天国からのエール】(2011年10月全国公開)【HNKテレビドラマ『テンペスト』のユタ役】(2011年7月17日放映開始)
≪こぼれ話≫
吉田妙子は、親泊興照を師として琉球舞踊の芸を深めるため那覇から名護まで通いながら指導を受けた。昭和27年にできた「さんご座」に入団して以来、親泊興照の芸を身近で吸収してきたお一人である。師と同じ舞台に立ちながら、その奥深さに触れたのである。今年1月、親泊興照作品「報い川」「豊年」を上演し、興照芸のユニークさを楽しませてくれた。互いに惹かれあう男女が歌い踊る足使いの独特な味わい、また歌の掛け合いにその特徴がよく見えた。パレット市民劇場はほぼ満杯で、遠く本部からも映画【風音】で共演した上間宗男さんや画家の治谷文夫さんが「たんかん一箱」持って駆け付けた。吉田さんの人の情けを大切にする人柄ゆえに思えた。
【嘉間良心中】を上演したのは1990年である。若い米兵と還暦前の娼婦の無理心中物語ゆえどうしてもアメリカ人のキャスティングが必要で、当時にしては実に適役の嘉手納空軍基地所属のロバートに出会った。美男でモデルのアルバイトもしている青年、基地内の彼の家でリハもやった。可愛い男の子の父親でメキシコ系の妻とは離婚していた。フィリッピン人のガールフレンドがリハにも同行していたが、基地内の人間関係の綾(からみ)を感じさせた。役になりきっていたロバートが退役前の事で、その後彼はシカゴに戻っていった。元気でいるだろうか。当時米兵と沖縄人のコラボによる演劇上演はほとんどないに等しく、その点でも世間の耳目を集めた舞台だった。妙子さんは体当たりで娼婦の役を演じきった。キヨが回想シーンで吉屋チルーのつらねを唱え、同じく吉屋の民謡を歌う場面がある。吉屋の象徴が現在に生きている証に思えた。
玉木 伸のプロファイル
1931年(5月17日)名古屋市にて出生
1946年 沖縄に引揚げ、名護高校編入
1949年 大島劇団「熱風座」入団。その後沖縄青年連合会「春秋座」入団
1950年 劇団「ときわ座」入団(座長真喜志康忠)
1958年 琉球新報主催演劇コンクール時代劇「落 城」で個人演劇賞
1960年 沖縄テレビ水曜ドラマ「怪盗伝運玉義留」六カ月連続出演、同時にその主題歌を吹き込む
1965年 沖映演劇に出演、数々の史劇、歌劇に出演
1988年 沖縄タイムス芸術選賞・奨励賞受賞
「ときわ座」解散と共にデザイン社経営。フリーとなって各
劇団に出演
2005年 沖縄タイムス芸術選賞(演劇・映像)大賞受賞
2007年 仲嶺真永と共に「劇団真永座」創設。後輩の指導に当たる。
「オヤケ赤八と豊見親王」演出
2008年 沖縄タイムス創立60周年「大新城忠勇伝」主演
現在 沖縄芝居後継者の指導
沖縄県指定無形文化財琉球歌劇技能保持者
渋みのある演技は定評がある。真喜志康忠の相手役として「ときわ座」の看板役者だった。「武士松茂良」「大新城忠勇伝」「野盗の群れ」「落城」「くちなしの花」「首里っ子ゆんた」「按司と美女」「悪を弄ぶ者」など真喜志作品の舞台で人気を博した。沖縄芝居実験劇場の「世替りや世替りや」では探報人としてセンスル節に合わせて村人をかき回していた姿が印象に残る。芸達者である!沖映の舞台でも数々の歌劇や台詞劇で主要な役柄を演じきった沖縄芝居役者である。とにかく若いころは女性フアンにモテタ方である。
男っ気のある作風が多い「ときわ座」の中でジュリが登場する芝居の代表は「くちなしの花」である。ジュリとの間に子が生まれた殿内の里之子は子供を引き取り女には手切れ金を渡す。しかしその子は長じて困難を乗り越え、実の母に再会を果たす。ジュリの母と子の志情(しなさき)が描かれる。
具志幸大のプロフィール
1977(昭和52)年 那覇市出身
1997(平成 9)年 沖縄県立南風原高等学校卒業
2001(平成13)年 沖縄県立芸術大学音楽学部卒業
2003(平成15)年 同 大学院音楽芸術研究科(修士課程)修了
中学校・高等学校教員免許(第一種・専修)免許状(音楽科)取得
沖縄県立真和志高等学校、沖縄県立南風原高等学校非常勤講師(琉球音楽)
2004(平成16)年 沖縄県立南風原高等学校教諭(臨時任用)
2006(平成18)年~2007年(平成19)年
沖縄県立南風原高等学校教諭(臨時任用)
沖縄県高等学校文化連盟功労賞受賞
≪芸歴(舞踊・組踊)≫
1985(昭和60)年 ・琉球舞踊を又吉靜枝に師事
1992(平成 4)年 ・組踊「若松会(宜保栄治郎主宰)」入会
宮城能鳳、親泊久玄、真境名正憲に師事
・琉球新報社琉球古典芸能コンクール舞踊新人賞
1996(平成 8)年 ・琉球新報社琉球古典芸能コンクール舞踊優秀賞
1999(平成11)年 ・沖縄伝統組踊保存会伝承者養成研修に参加
・琉球新報社琉球古典芸能コンクール舞踊最高賞
・宮城能鳳組踊研究会設立に参加
2002(平成14)年 ・琉球舞踊 教師免許取得(玉城流いずみ会・てだの会)
2007(平成24)年 ・琉球舞踊 師範免許取得(玉城流いずみ会・てだの会)
≪主なる活動≫
1993(平成 5)年 ・組踊初舞台「執心鐘入・若松役」
1995(平成 7)年 ・組踊「手水の縁・玉津役」
1999(平成11)年 ・国立劇場87回舞踊公演「道成寺の舞踊」出演 「執心鐘入・小僧役」(国立大劇場)
・文化庁芸術祭参加舞踊公演「又吉靜枝・玉城千枝子の会」出演(abc会館ホール)
2001(平成13)年 ・皇太子殿下御前にて演舞
2002(平成14)年 ・能と琉球舞踊のコラボレーション「琉球舞踊川田禮子の世界」出演(国立能楽堂)
2005(平成16)年 ・国立劇場おきなわ開場記念公演(初日・千秋楽)出演
2006(平成18)年 ・第1回リサイタルを開催(国立小劇場、国立劇場おきなわ大劇場)
2007(平成19)年 ・梅若六郎演出の組踊「執心鐘入」出演(横浜能楽堂)
2008(平成20)年 ・国立劇場おきなわ舞踊公演にて創作舞踊「ファンタジア~愛のかすり詩」を発表
2010(平成21)年 ・NHK沖縄の歌と踊り 上原直彦作「遊び村栄え」主演
≪芸歴(音楽)≫
1990(平成 2)年 ・安冨祖流琉球古典音楽を金城正二に師事
・箏を独学ではじめる
1994(平成 6)年 ・琉球新報社琉球古典芸能コンクール歌三線新人賞
1997(平成 9)年 ・琉球新報社琉球古典芸能コンクール歌三線優秀賞
2000(平成12)年 ・琉球新報社琉球古典芸能コンクール歌三線最高賞
2001(平成13)年 ・生田流箏曲(箏・三絃)を日高貞子に師事
2002(平成14)年 ・大濱喜久より、箏(琉球古典音楽)の手ほどきを受ける
2004(平成15)年 ・琉球古典音楽「歌三線」教師免許取得(安冨祖流絃声会)
・琉球音楽研究所を開設
2005(平成17)年 ・琉球歌劇・地謡を兼城道子、西江喜春に師事
2006(平成18)年 ・名嘉ヨシ子より、琉球箏曲の手ほどきを受ける
2007(平成19)年 ・門下生と共に、劇団うない地謡部結成
2009(平成21)年 ・琉球古典音楽「歌三線」師範免許取得(安冨祖流絃声会)
≪主なる活動≫
2002(平成14)年 ・文化庁芸術祭参加「琉球舞踊 川田功子の会」 地謡「筝」出演。歌三線は玉城正治先生。
(俳優座劇場)
2005(平成17)年~2006年(平成18)年
・劇団うない専属で、地謡「筝」を担当。歌三線は西江喜春先生、上地正隆先生。
2007(平成19)年 ・琉球舞踊 川田功子の会地謡担当。他 川田松夫作詞作曲集と題して5曲を独唱
2009(平成21)年 ・第1回リサイタルを開催。創作曲3曲を発表。(沖縄都ホテル)
・研究所開設5周年記念演奏会を開催。創作曲2曲を発表(教育福祉会館)
・研究所の年末の納会を公開で行う。これまで発表した創作曲3曲に加え、朗読と音楽による「赤馬」 を発表。(沖縄都ホテルチャペル無料コンサートとして)
2010(平成22)年 ・第40回川田公子太鼓の世界にて、歌三線、筝で賛助出演(草月ホール)2011(平成23)年 ・ 劇団「演」公演(沖縄県伝統芸能公演)地謡担当
・吉田妙子「花染ぬ手布」--遊女(ジュリ)の表象、地謡担当
・国立劇場おきなわ主催「歌舞劇 首里城物語」音楽構成担当
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*今回、舞台の構成の上で、地謡の具志さんの感性の豊かさが大きな力となった。将来有望な方である。応援してほしい!
*それから拍子木・太鼓を担当した山川宗春さんの感性・技量もすばらしい!彼のプロフィールも掲載したかったのだが、本人が遠慮されて、今回ご紹介できなかった。
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nasakiさんの沖縄歌劇との関わりの実績をネット等でもですが、今日、今更ながらに知りました。
「嘉間良心中」のストーリーは半分伯母と重なります。ご主人は最後まで沖縄に滞在して下さり、泊に眠っておられますが・・・。
一塊の凡人の目線の高さまで降りて頂き、ただ恐縮に感じております。
同じ安冨祖流ということでも、具志さんとも交流出来る機会が出来ればいいな、と思っております。
地方での舞台が近づいて参りました。
私も適度な緊張感を感じつつ、明日も休日返上の特別稽古があります。
歌劇の地方に縁が出来るとしたら、最低独唱のマスターが必須だと思いますので、まだまだ入り口に入ったばかりのひよっこです。
でも琉球芸能の入り口に入れかけていることでも喜びです。
今後もゆたさるぐとぅ、うにげぇさびら!
叔母様のことなどもう少しお聞きしたいです。沖縄へこられたとき時間を見つけて、泡盛でも飲みながらー?
今アウトラインも絞り込む必要があり、ディテールのデーターなど、まだの状態で、焦りもあるけど、でも焦ってもしょうがないような気がしています。
奄美の研究発表が闊達になっていますね。嬉しいことです。遅ればせながら以前いろいろご教示してくださったことなど反芻する必要があるようです。
落ち込まない程度に前進かな?