寝袋が友達になって久しいので名護までもいけない切羽詰まった時が来て、また半年日延べした論稿に向き合っているゆえにゆとりがあるようには思えるが、あれもこれも、欲が出て、深めるために時は情け容赦なく過ぎていく。追いつくことはできない。ただ流の中で形にする能力の問題でもあるのだろう。生きている間、論をこれだと確と提示できない不完全さと共にある。前置きはそこまでで、それで名護からまた京都に向かうカップルを空港まで見送ってあげてもいいなーと思っている。(最近は寝袋もるすがちになっている。1週間に二度くらいになりそうな新学期の忙しさ!)
思えば彼らと出会ったのは20代のアメリカ留学時代のことである。あの時から夫婦の風の色の多様さに驚いているが、結婚して母親となり、そして時が矢のように過ぎて、かつ、変わらないものが流れているのだと、人の世の無常と無限さに驚く。いつまでも時が止まったままで変わらないのだと錯覚したくなる時もあるが、しかし確実に年輪は身体に刻まれている。快活だったXXさんが変わったね、といった彼女だった。関係性の光と闇を人はそれぞれ抱えていて、それを+に転化できた人々は幸せなのだろう。何が幸せで何が不幸か、それはそれぞれのつらぬかれてきた(貫かれていく)人生航路によりけりだろう。だから隣は見ないでおこう。見て見ぬふりをしながら、前にある道筋を見つめているはずだが、それもどこへ向かっているのか見えなくなる時もある。
運命とか宿命とか、のことばは好きでない。こうなる運命とあきらめるんだね、のことばも嫌だ。彼女を見ていると、有り余る能力を生かしてほしいと思う。もったいない能力を地域コミュニティーのために生かして、それをかたちにして永遠の眠りについてほしいと思い続けているのだが、人の性分は変わらないのだろうか?
ボランティアでもいい。翻訳や通訳なら英語、ドイツ語とプロ並の力をもっている女性である。それを活用してほしいと念じるばかりである。しかしディアスポラの魂の闇の深さは私にはわからない。想像はできても彼女にはなれない。 法律の専門家で大学でずっと教えてきた連れ合いは「いい男」に見えるし、人当りもいい。しかし、夫婦の光と闇はまた人それぞれのもので、それも根の所はこれもまた想像の領域だ。しかし安らかな老後のステージを迎えてほしい。誰もが逝かなければならない最終ゴールまで、人はひたすら魂の彷徨いの中にあるのかもしれないのだから、これはいい演技、これがいいステージと決めつけることもできない。名護から京都へ、そしてハワイへ、故郷に何度も回帰する女性の姿は単に帰巣本能だろうか?
Sさん、あなたの彷徨える人生に幸せな着地があることを念じていますね!