あらためて「幸せ」って何だろう。
何時も「あなたは幸せな人ね」と云われる。 「あゝ俺は幸せだよ!」という。
苦境の中にあっても、そう見えないらしい。
若い頃から自分に問い正して来た事だ。
お金があれば幸せ? 車が買えたら幸せ? 結婚できたら幸せ? 家が持てたら幸せ?
人それぞれの幸せの目標があって良いと思う。
でも、達成できたら「幸せ」が「普通」になり、また次の欲望が出てくる。
「楽が出来たら幸せ」と云う人もいるが、そもそも「楽をする」の定義が良くわからない。
他人の影響を受けずに何もしないで寝て居られることなのか? 他力本願的に他人の力に頼って生きる事なのか? 努力の先にある安堵の状態なのか?
楽するために何かをしないといけないが、何もせずに楽だけを求めるなら生活苦で楽出来ない。
受動態で居る限り結局のところ不満が消える事は無く不幸感を抱くと考える。
人はどちかと云うと楽する事では幸せを感じる事が出来ない様に出来ているような気がする。
「私はこんなに幸せで良いのかしら??」なんて幸せに対しての罪悪感的言葉を発した直後、見るからに不幸のどん底に落ちる人も実際いた。
そもそも真に自分で呼び寄せた幸せならばそんな疑問を持つこと自体無いはず。 呼び寄せもしない自分に相応しくない幸せだから疑問を抱くのだろう。
現在、病気だろうと、健康だろうと、貧乏だろうと、金持ちだろうと、幸せを自分から見い出す術を知っている人は常に幸せだし、自分から見い出しているので「良いのかしら?」なんて口にする事は無く、むしろ自然と結果に対する「感謝の念」を抱くものだ。 でも、不幸な人はどんな恵まれた環境にあっても何処までも不幸を感じている。
違いは自らの努力によって生じた「地に付いた幸せ」と、棚からぼた餅的な他力本願的な一時的な「仮の幸せ感」の違いだと思っている。
要は、幸せまでの過程が大切だと言う事ですかね。
「自分は幸せを感じる権利を有している」と感じられること。
一番いけないのは、他人と比較しての「仮の幸せ感」に浸る事だと思っている。
架空の幸せを感じたいために、どんどん比較対照のレベルを落として自分は何もせず変わっていないのに「私はあの人より幸せだ」なんて馬鹿げた事を云っている内にいつの間にか誰よりもどん底にいたなんて人も実際目にしている。
人との比較で「幸せ」を感じてはいけない。
自分の価値観に対する努力ingだと思っている。
十人十色、幸せも十色ある。
自分が突然豪邸の持ち主になったところで、幸せなんてどこに有るの?
努力を重ねて行く中で、それに相応しい人格や人脈が出来て行き、その上で豪邸に住めて本当の幸せを感じる事が出来るのだと思う。
努力しても目標を達成できるかは神のみ知るところで、失敗を何度も経験していればどういう時に失敗するかも何となく分かるし、達成できたことへの感謝の気持ちが湧いてくる。挑戦しなければ経験も無い。
その感謝の心を持ち続けている限り幸せは続く。
でも、努力結果がたとえ「最悪な事態」になったとしても、努力を続けていると「あの最悪の事が有ったから今が有る」と思えて来て、結局のところ最悪が最悪のまま続いた事は無い。
むしろ「最悪な事態」は、良い方向へ方向転換するためのきっかけを与えてくれていると考えている。
こんな経験を重ねて行くと、努力が無駄だなんて事は思わないし苦しくても続けていける。
何もしなければ神も手を差し伸べてはくれない。
悪く見える結果であっても、次の幸せに向けての大切な糸口となる事を確信して来た。
「運が良い人は努力せずとも幸せになれるのだから努力なんてしない方が得だ」 と云う人がいるが、「夢を持ち続け、努力を続けていて初めて流れてくる運を手にできるもの」だと確信する。
さぞ自分が運の良い人間だと思い込んだ所で、結局のところ何もせず運は掴めない、逃げてしまう。自分や周囲の人の努力心を放棄させる様な発言をするのはもっての外だ。
みんな見えないところで努力して、何時流れて来るか分からない幸運を掴もうと懸命になっているのが実情だと思う。
流れて来た運を自分に合った幸運かすぐに見極めるには、経験の豊富さや何かがある。それは「心の素直さ」だと思っている。
確証は無いが素直な気持ちでいると危険性や有用性が「何となく」の感覚として伝わって来て危険を回避し、運を掴む事ができるように思える。
「心の声を聴け」ということなのだろう。
我良しな考えの人には出来ないこと。
少しでも人の役に立てる事を前提の目標は直ぐにでも現実化する事も経験上確かな事として認識している。
違ったご意見もあるかも知れませんが、あと2年で還暦を迎えるに当たり私なりの「幸せ」の定義を整理してみました。
自分のためにも残しておきたい。
哲学?何学?単なる想い? 秋ですねェ。