翌日もそこそこ良い天気で雨の心配は全くない。
前日は暗くて良く分からなかったが、7階の部屋からの眺めもなかなかだった。
ホテルは「伊勢志摩ロイヤルホテル」で大きいが、かなり満室に近かったらしい。
広い駐車場には乗用車もバスもかなりの台数が止まっていた。
ロビーも広くて混雑する朝の時間帯でも余裕の広さだった。
その一角には伊勢志摩サミットの記者会見で実際に使われたと云うバックパネルもあった。
さて、2日目は8時出発。
内宮には30分位で着いた。
鳥居をくぐる時は必ず立ち止まって一揖(いちゆう)(軽いおじぎ)をしてからくぐる。
橋の上流側にある柱は、洪水等で流木が橋桁にぶつかって損傷しない様に手前で食い止める役目の柱だと添乗員の方が教えてくれた。
砂利の広い通路を歩いて行くと、外宮と同様に手水舎があった。
内宮は、通路の右側にあるので境内全体が右側通行と言う事だ。 なるほどね。(写真は逆方向から撮ったので、進行方向は後ろになる)
直ぐ先には「五十鈴川御手洗場(いすずがわみたらし)」があったが、以前から何となくこの場所に行ってみたかったので誰も行かなかったが、一人で走って川の畔まで行った。
昔の人はここで手を清めたそうだ。
そして遂に内宮の正宮前に到着。
添乗員の方の説明では、この階段以降での写真撮影は禁止だそうだ。
なので、階段手前でみなさん記念撮影を済ませる。
外宮同様に、この目でしっかりと中の様子を脳裏に記憶して来た。
そういえば、ブラタモリでも云っていたが、この正宮でのお参りでは個人的な願い事などは慎まなければならない。
私も自然災害が起きない様にとか平和な世の中が続くようにと云った思いを伝えて来た。
きっと、それは多くの人のためであり、自分のためでもある訳だ。
そうは云っても、個人的な願い事をしたいのは人の常。
実は、この左側に歩いて行くとそれ専門の「荒祭宮(あらまつりのみや)」と云う「別宮」があってそちらで個人適な願い事を神が聞いてくれるそうだ。
境内には杉の巨木が至る所に生えている。
観光客は木からエネルギーをもらおうと、木を撫でていたが添乗員の方の話しでは、木の皮がむけて木が傷んでしまうので真似しない様にとの事だった。
確かに、つるつるになっている。 状況がひどい木には触れられない様に竹が巻かれている。
神聖な神域の自然物を「我良し」な考えで荒らすのは、ばち当りな事ですね。
さて、こちらが「荒祭宮(あらまつりのみや)」の社です。
しかし、私は自分に対する要望であれが欲しい、これが欲しいなどと具体的な要望を神社でお願いする事はありません。
大きな局面で、自分の力以外のものが関わっていると何時も感じる。
私が神仏に手を合わせるのは過去への感謝の気持ちによるものだ。
手を合わせている私を見て「神に頼っている」と解釈する人は自分の経験則で何時も神社でそのような願い事ををしてからそう見えるのだと思う。
神に頼っている人は努力せず不平不満ばかり云って、お願いしたのに「達成出来ない」と嘆いていつの間にか神を否定しているように感じる。
なりたい自分になれないのも、目標を達成できないのも途中で諦めてしまう本人に原因あるのだと考える。
松下幸之助の云う所の、「私は失敗をした事が無い」とは「諦めなかった」つまり最後は成し遂げたと言う事ですね。
途中の失敗は失敗では無く成功までの単なる途中経過だと言う事です。失敗を失敗のまま終わってしまうことが本当の失敗なんだと云うことだね。
人生の苦労は、自転車で激道を登るのと一緒で、苦しさを乗り越え諦めずに走り続けて頂上に着けば苦労なんて忘れるくらいの幸せ、達成感を得られる訳です。
そんなこんなで、社の前でこれまでに幾度もの困難を打開へと導いてくれた事への感謝の気持ちを何度もつぶやいていた。
大きな夢を持ち、 努力を続ける事でその時点では「最悪な事」が、それが有ったからこそ今が有ると感謝さえ覚えて来る。
「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」
好きな上杉謙信の言葉だが、「行動すれば出来る。行動しなければ何も達成は出来ない。出来ないと嘆いている人は結局は何もしていないか努力が足りないのだ」と。
まッ、私は哲学者でも何でもないですから、考えは人それぞれと言う事で・・・
深い想いを持ってこの地に来た事だけは分かってもらえたと思う。
次回へ。