現在のオリンピックは、カネまみれらしい、だから、オリンピックの最大の競技は「利権レース」。
古代のオリンピックは、そんなことはなかっただろう、県立図書館の視聴覚室で古代ギリシャの音楽のCDを聞いた、大変な苦労で再現したらしい、それは、ほんのりとした悲しみに満ちていた。
ところで、古代ギリシャの哲学者のパルメニデス・Parmenidēs ー前515年頃~ -は、
「一切の変化は 仮象である」
仮象とは「仮の形」、変化は感覚的現象であり、この世界には客観的実在がない、主観の幻影だ、彼は、どこで、このヒントをつかんだのか、この思想は、シュメールからではあるまいか。
さらに、
「時間は 存在しない」
ど真ん中のストライク、千年の迷妄(めいもう)を打ち破った、言ってくれるね、この世界には、瞬間があるばかり、透徹した一句。
学生時代には、まるで分からなかった、あの樫山教授なら、どう言ったか。
実存主義のセンセーは分かっていなかった、もっとも分かっていないのは、それだけではなかったが、
「実在の真相は 意味や価値がないことです 論理も目的もない不条理な世界です」
だから、
「不安と絶望 めまいと吐き気がホントーなんです そして そして・・・」
「生きていて 生きていて ごめんなさい ごめんなさーい」
「・・・」
「この姿勢 この態度が ヒツヨーなんです サイコーなんです」
こまったもんだ、この対極が学生運動だったのかもしれない、心情的には全共闘と同じ立場の三島由紀夫は、
「世界が虚妄(こもう)ならば」
「・・・」
「意味と価値の『花』を咲かせようではないか」
ここに、彼の文学のダイナミズムがあった、そして、それは「人工の花」、だから、それは、物質的次元であり、言うならば電子コンピュータ的であり、量子コンピュター的ではない、時間と空間の制約があった。
彼は45歳で自決した、
「三島は 老人になることを恐れていた 嫌っていた」
それが、彼の文学・彼の人生、彼独特の「美しい没落」か、三島は、あれほど嫌っていた近代・近代の時間観を越えることができなかったのかもしれない。
ところで、宇宙の物質量は一定だから、過去・現在・未来とはなにか、仏教に「諸法無我」、すると時間も無我、時間は存在しないことになる、これは量子力学につながる考え方であろうか。
人類は、漸(ようや)くにして、「100万年の呪縛(じゅばく)」から脱しようとしているのかもしれない。