The orthodox civilization is the festival politics of Japan

「安藤真の『世界文明の正統は』」の続き、祭政は人間中心を超え物質文明を越える、これを受け継いでいるのが日本の伝統と文化

Da Vinci's message

2016-09-05 14:34:07 | Weblog

In this picture, Jesus is knowing himself be crucified, has decided intends to subscribe his destiny and Maria desperately withstanded the sadness.
Da Vinci know their relationship , so , became a bold composition.
Large " V " between the two people, which represents the Holy Grail-Chalice.
Vatican for world domination trying to use him, but in fact of him ,
" Jesus was a brave young man. "
" Maria was a gentle woman. "
" They were in love each other. "
" And he decided to take the sins of mankind. "
Da Vinch , a piece of the whole body, the whole body of cry.
            

 このブログで一番の人気が、ここのところだった、気が付かなかった、改めて見てみるとまあまあかな、英訳してみた。

 改めて、この絵を見ると、イエスとマリア、人間イエスと永遠の女性マグダラのマリア、二人を描いたダ・ヴィンチの心情が迫ってきた、イエスは、自分が十字架に架けられることを知っていたのだろう、そして、この運命を引き受けようとする、マリアは、必死に悲しみに耐えている。

 そして、イエスとマリアの関係を苦々しく思っている弟子たちはマリアの首に手を当て、カットするジェスチャー、なかなかの心理描写だ。

 それにしても何とつらくさびしそうなことか、ダ・ヴィンチは、二人の関係を知っており、その情報をインプットする、だから、これほどの大胆な構図になった。

 二人の間には、大きな「Ⅴ」、これは杯・聖杯を現わし、聖女・聖母・女神、そう、永遠の母性をあらわす、ヴァチカンの支配によって抹殺・迫害されたものだ。

 「イエスは、雄々しく勇敢な若者でした」
 「マリアは、たおやかで優しい女性でした」
 「二人は、お互いに愛し合っていたのですよ」
 「だが、イエスは、人類を救うために、人類の罪を引き受けたのです」

 レオナルド・ダ・ヴィンチ、渾身の一枚、渾身のメッセージ。

三島由紀夫の不完全な最終章 上

2016-09-05 05:55:22 | 世界経済
          
 大きなあの事件の裏に小さなエピソード、三島にとっては不名誉なエピソードがある。

 あまり知られてはいない、それは、比叡山の天海蔵の秘本にまつわるもので、僧侶でも見ることのできない秘本中の秘本を、三島は「見た」、今東光は猛烈に抗議する、
 「世間がどう言おうと 俺はあいつを信用しない」
 さらに、
 「あいつを 評価しない」   
        
 その前にいい方の評判を、『司馬遷』の名著をものにした武田泰淳は、三島について、
 「空前絶後の文章の達人」
 これは、彼の古典の学識から来るものだろう。

 ところで、英文学と漢籍には通じていた夏目漱石は、日本の古典文学には疎(うと)かった、そこに彗星の如く現れた芥川龍之介、この若者の短編小説は王朝の雅(みやび)とユーモアが横溢(おういつ)しており、漱石は芥川をバックアップする。

 ある日、その芥川と谷崎潤一郎とある編集長が、古典の知識を披歴した、すると芥川よりも谷崎の方が詳しい、これには一同がビックリ、ところが、芥川・谷崎よりもその編集長の方が、はるかに上だった、当時の日本の知識人のレベルの高さ、今とは比べようがない。
          
 三島は、ライフ・ワークの『豊穣の海』で、
 「数珠(じゅず)を繰(く)るような蝉の声が あたりを領(りょう)している」
 「その他には なにもない 記憶もなにもないところに来てしまったと本多は思った」
 そして、
 「庭の木立(こだち)は 夏の日盛りの日を浴びてしんとしている」

 「しんとしている」、近代的ニヒリズムの彼方に、宗教的静寂を体験したのだろうか、当時、まだ元気だった老僧に聞くと、
 「かすったぐらいかな」
 「・・・」
 「日本人なら そのくらいには達しているよ」

 無上の仏道では、入口にいようが「奥の細道」を歩もうと「おなじ」ではなかろうか、
 「そう言ってもなあー」
 「なんですか」
 「初心者の禅で終わってしまうんだよ」

 老僧は曹洞宗の僧侶だったが、
 「只管打坐(しかんたざ)であっても」
 「坐りきれるもんではないよ」
 「それなりの修行をしなければいけない」

 庭は、もう秋、
 「自覚がないといけないね」
 「せっかくの宝が生きてこない」

 アメリカのゼンセンターで坐ったことがあるが、なんかヘン、ザワザワしている、日本の禅堂とは違う、帰って来て質問した、すると、
 「師家(しけ)は 日本人でなくてはダメだな」
 彼らは、日本人には当りまえのこと、言わなくて分かることが、分かっていないのだ。

 日本人には何代・何十代にも渡って、身についたものがあるようだ。