The orthodox civilization is the festival politics of Japan

「安藤真の『世界文明の正統は』」の続き、祭政は人間中心を超え物質文明を越える、これを受け継いでいるのが日本の伝統と文化

三島由紀夫の不完全な最終章 下

2016-09-07 05:56:24 | 世界経済
                
 あんな風にして亡くなったが、
 「自己愛じゃあないのかな」
 禅宗の老僧は手厳しい、上っ面にはごまかされない。

 少年だけではないのか、
 「いや けっこう強いもんだ」
 「一度はまったら なかなか越えられるもんではない」
 大義はともかくか、
 「めぐまれた生活をしている者は 現実を体験するチャンスのないケースが多く そのまま引きずってしまう」
 出版社から、ちやほやされていたようだが、
 「彼の才能がそれを可能にしたのかな わがままが通ってしまった」

 なにか言いそうだ、
 「だから 彼の文学 ホンモノの文学ではないね」


 さて、比叡山に門外不出の秘本があった、三島は、それを見たと述べる、だから今東光がクレーム、
 「僧侶だって見れないのに 俗人の三島が見れるわけがない」
 これまで、それに触れることのできた僧侶は、ほんの数名、まさに秘本中の秘本だ。

 この抗議に、増版では訂正しますから、
 「だが ああいうことがあって そのままになってしまった」
 「世間が どう評価しようと オレはあいつを認めない 許さない」

 その秘本とは稚児(ちご)に関するもので、平安朝の名僧・高僧たちは、競って見目麗(うるわ)しい稚児を求めた、そして秘密の儀式を行い、妖しくも淫靡な子弟の関係がスタートした、師匠のそれが「無明火」・稚児のそれが「法性華」、今東光は数年いや数十年かけて、その解読を挙行し、なんとか一書にする、古文書のそれは、欠字・脱字が多く、今春聴の苦労は普通ではない、今東光のその労作を三島は見たのであり、だから、彼には、そのプロセスが分かった。

 それは、王朝文化の奥の院であり、三島には欲しくてたまらない一冊、三島はルールを破ってしまったんだろう、今東光は、
 「オレは あいつを許さない」

 そんなエピソード、もし本当なら、さぞかし心残りだったのではなかろうか。


Da Vinci's message

2016-09-05 14:34:07 | Weblog

In this picture, Jesus is knowing himself be crucified, has decided intends to subscribe his destiny and Maria desperately withstanded the sadness.
Da Vinci know their relationship , so , became a bold composition.
Large " V " between the two people, which represents the Holy Grail-Chalice.
Vatican for world domination trying to use him, but in fact of him ,
" Jesus was a brave young man. "
" Maria was a gentle woman. "
" They were in love each other. "
" And he decided to take the sins of mankind. "
Da Vinch , a piece of the whole body, the whole body of cry.
            

 このブログで一番の人気が、ここのところだった、気が付かなかった、改めて見てみるとまあまあかな、英訳してみた。

 改めて、この絵を見ると、イエスとマリア、人間イエスと永遠の女性マグダラのマリア、二人を描いたダ・ヴィンチの心情が迫ってきた、イエスは、自分が十字架に架けられることを知っていたのだろう、そして、この運命を引き受けようとする、マリアは、必死に悲しみに耐えている。

 そして、イエスとマリアの関係を苦々しく思っている弟子たちはマリアの首に手を当て、カットするジェスチャー、なかなかの心理描写だ。

 それにしても何とつらくさびしそうなことか、ダ・ヴィンチは、二人の関係を知っており、その情報をインプットする、だから、これほどの大胆な構図になった。

 二人の間には、大きな「Ⅴ」、これは杯・聖杯を現わし、聖女・聖母・女神、そう、永遠の母性をあらわす、ヴァチカンの支配によって抹殺・迫害されたものだ。

 「イエスは、雄々しく勇敢な若者でした」
 「マリアは、たおやかで優しい女性でした」
 「二人は、お互いに愛し合っていたのですよ」
 「だが、イエスは、人類を救うために、人類の罪を引き受けたのです」

 レオナルド・ダ・ヴィンチ、渾身の一枚、渾身のメッセージ。

三島由紀夫の不完全な最終章 上

2016-09-05 05:55:22 | 世界経済
          
 大きなあの事件の裏に小さなエピソード、三島にとっては不名誉なエピソードがある。

 あまり知られてはいない、それは、比叡山の天海蔵の秘本にまつわるもので、僧侶でも見ることのできない秘本中の秘本を、三島は「見た」、今東光は猛烈に抗議する、
 「世間がどう言おうと 俺はあいつを信用しない」
 さらに、
 「あいつを 評価しない」   
        
 その前にいい方の評判を、『司馬遷』の名著をものにした武田泰淳は、三島について、
 「空前絶後の文章の達人」
 これは、彼の古典の学識から来るものだろう。

 ところで、英文学と漢籍には通じていた夏目漱石は、日本の古典文学には疎(うと)かった、そこに彗星の如く現れた芥川龍之介、この若者の短編小説は王朝の雅(みやび)とユーモアが横溢(おういつ)しており、漱石は芥川をバックアップする。

 ある日、その芥川と谷崎潤一郎とある編集長が、古典の知識を披歴した、すると芥川よりも谷崎の方が詳しい、これには一同がビックリ、ところが、芥川・谷崎よりもその編集長の方が、はるかに上だった、当時の日本の知識人のレベルの高さ、今とは比べようがない。
          
 三島は、ライフ・ワークの『豊穣の海』で、
 「数珠(じゅず)を繰(く)るような蝉の声が あたりを領(りょう)している」
 「その他には なにもない 記憶もなにもないところに来てしまったと本多は思った」
 そして、
 「庭の木立(こだち)は 夏の日盛りの日を浴びてしんとしている」

 「しんとしている」、近代的ニヒリズムの彼方に、宗教的静寂を体験したのだろうか、当時、まだ元気だった老僧に聞くと、
 「かすったぐらいかな」
 「・・・」
 「日本人なら そのくらいには達しているよ」

 無上の仏道では、入口にいようが「奥の細道」を歩もうと「おなじ」ではなかろうか、
 「そう言ってもなあー」
 「なんですか」
 「初心者の禅で終わってしまうんだよ」

 老僧は曹洞宗の僧侶だったが、
 「只管打坐(しかんたざ)であっても」
 「坐りきれるもんではないよ」
 「それなりの修行をしなければいけない」

 庭は、もう秋、
 「自覚がないといけないね」
 「せっかくの宝が生きてこない」

 アメリカのゼンセンターで坐ったことがあるが、なんかヘン、ザワザワしている、日本の禅堂とは違う、帰って来て質問した、すると、
 「師家(しけ)は 日本人でなくてはダメだな」
 彼らは、日本人には当りまえのこと、言わなくて分かることが、分かっていないのだ。

 日本人には何代・何十代にも渡って、身についたものがあるようだ。


Parmenidēsと量子力学

2016-09-01 06:58:51 | 世界経済

 現在のオリンピックは、カネまみれらしい、だから、オリンピックの最大の競技は「利権レース」。

 古代のオリンピックは、そんなことはなかっただろう、県立図書館の視聴覚室で古代ギリシャの音楽のCDを聞いた、大変な苦労で再現したらしい、それは、ほんのりとした悲しみに満ちていた。

 ところで、古代ギリシャの哲学者のパルメニデス・Parmenidēs ー前515年頃~ -は、
 「一切の変化は 仮象である」

 仮象とは「仮の形」、変化は感覚的現象であり、この世界には客観的実在がない、主観の幻影だ、彼は、どこで、このヒントをつかんだのか、この思想は、シュメールからではあるまいか。

 さらに、
 「時間は 存在しない」
 ど真ん中のストライク、千年の迷妄(めいもう)を打ち破った、言ってくれるね、この世界には、瞬間があるばかり、透徹した一句。

 学生時代には、まるで分からなかった、あの樫山教授なら、どう言ったか。

 実存主義のセンセーは分かっていなかった、もっとも分かっていないのは、それだけではなかったが、
 「実在の真相は 意味や価値がないことです 論理も目的もない不条理な世界です」
 だから、
 「不安と絶望 めまいと吐き気がホントーなんです そして そして・・・」
 「生きていて 生きていて ごめんなさい ごめんなさーい」
 「・・・」
 「この姿勢 この態度が ヒツヨーなんです サイコーなんです」

 こまったもんだ、この対極が学生運動だったのかもしれない、心情的には全共闘と同じ立場の三島由紀夫は、
 「世界が虚妄(こもう)ならば」
 「・・・」
 「意味と価値の『花』を咲かせようではないか」
 ここに、彼の文学のダイナミズムがあった、そして、それは「人工の花」、だから、それは、物質的次元であり、言うならば電子コンピュータ的であり、量子コンピュター的ではない、時間と空間の制約があった。

 彼は45歳で自決した、
 「三島は 老人になることを恐れていた 嫌っていた」

 それが、彼の文学・彼の人生、彼独特の「美しい没落」か、三島は、あれほど嫌っていた近代・近代の時間観を越えることができなかったのかもしれない。

 ところで、宇宙の物質量は一定だから、過去・現在・未来とはなにか、仏教に「諸法無我」、すると時間も無我、時間は存在しないことになる、これは量子力学につながる考え方であろうか。

 人類は、漸(ようや)くにして、「100万年の呪縛(じゅばく)」から脱しようとしているのかもしれない。