彼は、東京・池袋の一軒家に住んでいた。
その一軒家の庭で、彼は日がな一日、虫や花などを眺めて暮らしていた。
彼の名は、熊谷守一。
1880年に生まれ、1977年に97歳で没した。
熊谷は猫が好きだった。
飼い猫の他に、野良猫も自由に家に出入りできるようにしていた。
下は、生まれつき目が見えない猫で、熊谷が一番可愛がっていた猫だそうだ。
「猫」 (1965年)
次は、熊谷が自宅の庭の花や虫を描いたもの、2点。
「豆に蟻」 (1958年)
「ハルシヤ菊」 (1954年)
6月1日の「日曜美術館」は、熊谷守一の特集だった。 (『ひとり“命”の庭に遊ぶ~画家・熊谷守一の世界~』)
私はそれ以前にも彼の作品の幾つかを知っていて、とってもステキな絵だと思っていた。
そして今回、番組を通して彼の人生と絵とをより詳しく知ることによって、熊谷守一の存在と絵は、私にとってますます魅力的なものになった。
熊谷守一は、二十歳で入学した東京美術学校を、首席で卒業。
(同期には、青木繁などそうそうたるメンバーがいた。)
卒業後描いた「自画像」は、名立たる展覧会で受賞し、将来を嘱望されてもいた。
しかし、母の死をきっかけに、彼は東京を離れて故郷の岐阜に帰り、絵の世界から遠ざかる。
数年後再び上京し42歳で結婚、子どもも次々と生まれるが、彼は絵を描こうとはしなかった。
生活は困窮し、妻からも絵を描いてほしいと頼まれるが、彼はどうしてもお金のための絵が描けなかった。
そんな中で不幸が起こる。
次男の陽が、わずか2歳で、肺炎で死んでしまったのだ。
「陽が死んだ日」 (1928年)
彼は泣きながら上の絵を描いた。
でも絵を描いている自分に気づき、嫌になって途中で止めたのだそうだ。
その後も熊谷は、なかなか絵が描けなかった。
その彼に友人が日本画を勧めた。
勧められて当時描いた日本画、2点。
「蛙子」 (1940年)
「蒲公英に蝦蟇」 (1938年)
熊谷は、日本画から、絵を描くヒントを少し得たようだった。
しかし戦後まもなく、熊谷を2度目の不幸が襲う。
21歳になったばかりの長女を、結核で亡くしてしまったのだ。
彼の悲しみは、もちろん深かった。
しかし彼は、今度は8年の歳月をかけて彼女の死と向き合い、模索の末、一枚の絵を描く。
「ヤキバノカエリ」 (1948年~1955年)
70歳過ぎ、病をキッカケに、熊谷はほとんど外出しなくなる。
彼は一日の大半を庭で過ごした。
夜になると、「学校に行ってくる」と言って、アトリエにこもって、1~2時間絵を描いた。
それでも冬になると、「冬眠だ」と称して絵は描かなかった。
愉しみは、妻を相手の囲碁だけだったそうだ。(それも、いつも負けてばかりだったとか…)
そんな生活の中で生まれた、斬新で温かみのある彼の絵の何点かを、次にあげておきます。
「雨水」 (1959年)
「雨滴」 (1961年)
「紅葉」 (1961年)
「あじさい」 (1966年)
「朝のはぢまり」 (1969年)
一番最後の「朝のはぢまり」は、朝目覚めた熊谷が、雨戸の節穴から射し込む光を描いたものだそうだ。
最後に、題名は分からなかったけれど、私が好きだと思った4点の絵を載せさせていただきます。
ホタルかあ‥イイなあ