比較的最近見た2つのテレビ番組で、私は、2人の女性の生き様(死に様)に、強い衝撃と感動を受けた。
一人目は、阪神大震災から東日本大震災にかけて、自分の全生活を被災者支援に捧げ続け、昨年秋に亡くなられた≪黒田裕子さん≫。
黒田裕子さんの活動ぶりは、私もそれまで何度か、テレビ画面で拝見してきていた。
彼女は、もとは関西の病院の看護師で、初めのうちは、仕事をしながら被災者の支援活動を精力的にされていた。
でも途中からはその仕事も辞めて、支援活動に、ご自分の全生活を捧げてこられた。
私はテレビ画面でその姿を拝見するたびに、「すごい人がおられるんだなあ!」と、ただただ感服するのみだった。
(仮設住宅を訪れ、被災者と語り合われる黒田さん)
その黒田さんが、ある時期から、テレビの画面で見ていても、ずいぶん痩せてこられているような気がして、心配していた。
そして、昨年の秋、私はテレビのニュースで、黒田さんの死去の報に接した。
“やっぱり、彼女は病気をおして活動を続けておられたんだ‥。そして、遂に命尽きられたんだ‥。”
私はそう思い、彼女の死を悼むとともに、彼女を失った被災者の悲しみと苦悩を思った。
その彼女の最期の姿が、1月末のNHKスペシャル≪傷ついた人々に寄り添って~黒田裕子・最期の日々≫で、明らかにされた。
人間の最期の姿を映像にすることは、普通は何か憚られる感じがするけれど、それは黒田さんの要望でもあったようだ。
被災者の死(なかんずく孤独死)と向き合い、人間の幸せな死を求めて活動してこられた彼女は、自分の死を通しても、死のあり
ようを訴えようとなさったのかも知れない。
彼女は、自分の命がもう幾ばくも無いことを悟ったとき、故郷の島根・出雲に帰りたいと言われる。
私は驚いた!
彼女が私と同じ出身県であることにも驚いたが、阪神を中心に活動されてきた彼女が、自分の死に場所を故郷に求められたこと
が、意外でもあったのだ。
主治医は、今まで自分のことは一切顧みないで活動してきた黒田さんの“最期の我が儘”を叶えてあげようと、決断される。
いよいよ病院をあとにすることが決まったあと、兵庫県の井戸知事が、病床の彼女のもとを訪れられた。
彼女は、(ある意味、活動をともにしてきた)井戸知事に、単なる別れだけではなく、自分の願いをしっかりと伝えられた。
「これからの震災に備えて、福祉避難所は、ひとくくりにしないで、いろんな人の症状に合わせてきめ細かいものにしてほしい!」
「本当に困っている人が、困ることのないように!」
「最後の一人まで見捨ててはいけない!みんな同じ人間なんだから。」‥と。
ほとんど肉のついていない、息も絶え絶えな体から、彼女は力強くこのように訴えられたのだ。
9月18日、黒田さんは、みんなに見送られて病院をあとにし、空港に向かわれる。
空港に向かう車の中から、痩せた手を高々と上げて、見送りの人たちに応えられる黒田さんの姿は、痛ましいというより、神々しく
さえあった。
彼女は、ふるさとに近い「島根大学医学部付属病院」に、無事到着される。
そこでは、妹さんご夫婦などが、彼女を待ち受けられていた。
不思議なことに、ふるさとに着いたときから、彼女の激しい痛みは、嘘のように和らいだそうだ。
彼女は、妹さんが用意された、(それまでの病院食ではない)“ふるさとの料理”を、美味しそうに食べられた。
「これ、鯛めし。」 「最後の晩餐だね。」などと言いながら。
そして、体調を見計らって、彼女は病院の屋上にも、連れて行ってもらわれる。
屋上からふるさとの景色を眺められたときの、彼女の幸せそうな表情が忘れられない。
ふるさとで幸せな最期のときを過ごされた彼女は、24日午前0時に、静かに旅立たれた。(享年、73歳)
最後に、彼女が通われていた気仙沼の仮設住宅につくられた祭壇と、彼女が被災者の女性に送られた葉書を載せます。
“人生の旅の荷物は、夢ひとつ”(黒田裕子)
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