のんスケの‥行き当たりバッタリ!

ぐうたら人生を送ってきた私が、この歳になって感じる、喜び、幸せ、感動、時に怒りなどを、自由に書いていきたいと思います。

松本竣介の絵が問いかけるもの。

2018-11-16 12:06:54 | 日記

 ※このブログは実際は2012年に投稿したものですが、訳あってこのブログを探しているとき操作を間違えて、今日の投稿になっ

  てしまいました。元に戻す方法が分からないのでそのままにします。 お許しください)

 

 ずいぶん前になるけれど(8月5日)、教育テレビ“日曜美術館”で≪松本竣介≫を見て、強い共感と感動を覚えた。

 それ以来、彼の絵と生き方から私が受けた感動を、早く書きたいと思っていたけれど、なかなか果たせなかった。

                          

 

 松本竣介の絵は、それまでに2,3点は見たことがあるような気がするけれど、彼の全体像を知ったのは、その時が初めてだった。

 

 

 松本竣介は、1912年に生まれ、1948年に36歳の若さで逝った、夭折の画家だ。

 彼は13歳の時に、脳脊髄膜炎で聴覚を失い、その後16歳で、本格的に画家を志す。   

 その頃の彼の写真と、彼の言葉。

                     

 

                    “絵筆をかついで とぼとぼと 荒野のなかを さまよえば、 

                     初めて知った 野の中に 天に続いた道がある。

                     自分の心に 独りごと言いながら 私は天に続いた道を行く。”

 

 

 聴覚を失うという不幸に遭いながらも、若さと自負心に満ちた彼の表情と言葉が、初々しくすがすがしい!

 

 

 でも、彼が絵を描き始めてしばらくすると、黒雲垂れこめる戦争の時代が始まる。

 

 軍部は、画家たちにも、あからさまに戦争協力を押し付けてくる。

 雑誌“みづゑ”(昭和16年1月号)に掲載された、≪国防国家と美術~画家は何をなすべきか~≫の一部。

          「亡国的な絵が非常に多い。(中略) 

           時局にふさわしい思想感情を表現して、国家機能を担当しなければならぬ。

           言うことをきかなければ、絵の具とカンバスは配給を止めてしまう。」

 

 美術の世界にも戦争協力の風潮が広がり、名だたる画家たちも、こぞって戦争画を描きはじめる。

 

 

 そんな中で、松本竣介だけがただ一人、ハッキリした反対の姿勢を示す。

 雑誌“みづゑ(昭和16年4月号)”で、彼は臆することなく、次のように書いている。

         「今沈黙することは、賢い。けれど今、沈黙することが全てにおいて正しいのではないと信じる。

         一切の芸術家としての表現行為は、その作者の腹の底まで染み込んだ肉体化されたもののみに限り、

         それ以外は表現不可能という、厳然とした事実を度外視することはできないのである。 (後略)」

 

 これは明らかに、画家の内面を無視して戦争協力を押し付けてくる、軍部に対しての、キッパリした拒絶だ。

 

 そして彼は、その決意を示すかのように、「立てる像」なる自画像を、描く。(昭和17年)

                      

 

 

 彼のその決意と、描くことに対する姿勢は、昭和18年の“日記”でも、ハッキリと語られている。

          “真実と美のためには 一切のことに耐えよ。 仕事を守ることが その全てである。

           明確に描け。 詩情はその上に 自ら出てくるもので なければならぬ。” 

 

 

 彼がそのような思いで描き続けた、戦時下の東京や横浜の街。

                  ←「ニコライ堂」(昭16年)

 

                ←「市内風景」(昭16年)

 

                      ←「議事堂のある風景」(昭17年)

 

                      ←「Y市の橋」(昭18年)

 

 

                ←「ニコライ堂と聖橋」(昭16年)

 

 

 私は、上のどの絵も、とても好きだ!

 調和のとれた渋い色使いも、ステキだと思う。

 色調は暗いが、でも彼の色は、決して濁っていない。

 それに、彼のどの絵にも、ヒッソリとだが、人物が描かれている。

 それは、彼の、人間に対する深い思いを、表しているようにも思う‥。

 

 

 そして、敗戦。

 

 昭和20年10月の「芸術家の良心」で、戦争画を描いていた画家たちの、戦後の変容ぶりに対して、彼は痛烈な言葉を投げかけている。

    「僕なんかは、日本の芸術家はカメレオンの変種なのではないかと思われることが、なによりもさびしい。(云々)」と。

 

 そして、戦後の彼の作品は‥

                 ←「Y市の橋」(昭21年)

 

                  ←「焼跡風景」(昭21年ごろ)

 

                  ←「ニコライ堂」(昭22年ごろ)

 

 

 そして絶筆、「建物」(昭23年)

                    

 

 病の床で、見舞いに来た画家仲間にこの絵の評価を聞き、いい絵だと言われて満足そうに微笑んだあと、あまり時を置かずして、彼は36歳の短い

生涯を閉じたのだという。

 

 声高ではないけれど、しかし毅然として一歩も譲ることなく、自らの信じるところを表現した画家‥松本竣介。

 私たちは、あの戦争の時代に、彼のような画家をもったことを、誇りに思う。

 そして、心の自由を押しつぶそうという動きの見られる今の社会の中で、彼は私たちに、どのように生きるべきかを、問いかけているようにも思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

     


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6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
松本峻介、大好きです🙏 ()
2018-11-15 17:35:54
倒れる前に、県立美術館で彼の全作品を観ることができたのが、がえない心の宝物です🙏
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雀さんへ (のんスケ)
2018-11-16 12:20:26
 コメントありがとうございます♪
 それにしてもずい分前に書いたブログですのに(コメントに返信しようとしてこのブログを探していたら操作を間違えて、今日投稿したことになってしまいました…)、どうしてこのブログを見られることになったのか不思議です。
 それはともかく、雀さんは松本竣介の展覧会に行かれているんですね!羨ましいなあ!!
 私は、次の日曜美術館で再び松本竣介をやるみたいなので、楽しみにしています。
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混乱させてすみません😣💦⤵ ()
2018-11-19 18:50:08
好きな画家は直ぐに、インプットするのですので、ついついコメントしてしまいました🙆 何も知らないままに 偶然に出会い、惹かれたのが、松本竣介と、熊谷守一です😆
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雀さんへ (のんスケ)
2018-11-23 11:54:51
 いえいえ、どういたしまして! コメント入れていただいてとっても嬉しいです!(^^)!
 熊谷守一、私も大好きな画家の一人です♪
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一番嫌いな大人は、 ()
2018-11-23 15:27:52
少公女セーラに出てくる女教師です😱 邪悪な風見鶏のような大人達に、どれだけ傷つけられて来たか?
でも、松本竣介も、熊谷守一も、己を傷つけるとも、変節はしないでしょうね👼 ゴジュウカラの絵日記、2012年9月の記事をご覧下さいますか?🙋
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雀さんへ (のんスケ)
2018-11-26 19:15:39
 「ゴジュウカラの絵日記」読ませていただきました…。
 雀さんの松本竣介への強い共感、そして、そのブログを書かれてしばらくして病が雀さんを襲ったこと、などなど…。
 斜め読みですが、2012年9月までのブログは、雀さんについて多くのこと(その素晴らしい感性・豊かな知識・素敵な絵(これらの絵も左手で描かれたんですね!)と文章などなど)を私に教えてくれ、強い衝撃を受けました…なんて月並みな言葉では言いあらわせないのですが。
 凡庸な私ですが、これからもお付き合いいただければ本当に嬉しいです。
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