それではいよいよ鉢形城へ。車で鉢形城方面に向かうと、それらしき山が見えてきた。あれよあれよという間にその山の中に車で入ってしまう。すると、いきなり山の頂上付近で、下のような光景が広がる。
鉢形城は1476(文明8)年に関東管領・山内上杉顕定の家臣である長尾景春によって拠点になったと言われる。景春は主君・上杉顕定に反旗を翻したが1478(文明10)年には大田道灌によって鎮圧されると、鉢形城には上杉顕定が入城した。
その後鉢形城は、山内上杉家・後北条家・武田家などによって翻弄されるが、永禄年間には北条氏邦を城主として迎えている。現在の鉢形城史跡は、この北条氏邦の晩年頃の遺構であると思われる。
鉢形城は、1997(平成9)年から2001(平成13)年にかけて発掘調査が行われた。さらに2002(平成14)年から2004(平成16)年にかけて鉢形城公園整備が行われ、同年10月から「鉢形城公園」として一般公開された。近年は中世史跡の復元が徐々に増えつつあるが、やはり近世城郭と比べるとその数は圧倒的に少ない。鉢形城は関東近辺で中世復元史跡を見られる貴重なスポットである。
鉢形城の三の曲輪には、北条氏邦の時代に築かれたと思われる石積土塁がある。中世後期とは言え、石を使った土塁は珍しい。こういったものが近世になって立派な石垣になっていくんだろうなと想像できる。
さて、鉢形城三の曲輪の復元門は四脚門が復元されているが、これは鉢形城歴史館の資料によると「洛中洛外図屏風」に描かれている細川管領邸の板屋根を意匠しているという。実際の中世の城郭の門というのはどのようなものであったのか?「伝○○城の門が○○寺に移築されている」という話は良く聞くがこれは本当なんだろうか?中世の城郭の門というと、どのようなものみなさんは想像するだろうか。
上記写真は「鉢形城歴史館」前の模擬冠木門である。このような簡単な冠木門もあったと聞く。このような質素な門が大手門では敵に簡単に突破されてしまうだろうが、小規模な砦規模ならこのような門だったのだろうか。やはり中世城郭は復元されていないので、ビジュアルに乏しい。ゆえにこういう復元城郭はありがたい。
三の曲輪には、堀立柱建物の復元建築(休憩所になっています)もある。これは実際、柱跡が発掘されたのを元に復元している。しかし鉢形城では、礎石などが発見されず大きな建物跡がみつからなかった。これは城跡が田畑に利用されたためだと思われるが、完全再現復元は無理なのである。
ここ三の曲輪には堀立柱建物の他に庭園跡と見られる池の跡がある。福井県の朝倉氏一乗谷史跡に行って以来どうも最近自分の庭園を見る目が変わってきた。庭園がどのように生活の中で使われたのか。建物とどのような位置関係であったのだろうか考えるようになった。そこで私も堀立柱建物(休憩所)から庭園を眺めてみたのが下の写真である。
水草が生い茂っているのであまり眺めはよくない。が、それは置いておいて疑問がひとつ。わたしがこの建物の縁側に座って庭園を眺めながら茶(ペットボトルのお茶)でも一服しようと思っていると、何か違和感がある。やけに池との距離を感じる。そこで建物内で立ってみると、そこそこ見える状況となった。あとで鉢形城歴史館発行の『鉢形城指南』(12頁)をみてわかったことだが、やはり庭園は建物に近接して「座観」(座って眺めるべきだ)すべきものとされて、その考えに基づくと鉢形城の庭園跡はあてはまらなくなる。ひょっとすると、田畑の開発で失われた建物遺構があり、そこに近接した建物があったのかもしれないという。謎は膨らむばかりであるが、想像することが楽しい。
さらにこの堀立柱建物の近くには井戸跡があった。建物が会所(人をもてなす場所)とすれば、必然的にお茶を出したり、食事を出す必要がある。だからこそ井戸跡があるのは当然とも言える。
(三の曲輪から二の曲輪を臨む)
(三の曲輪から荒川を臨む)
ああ。こんな高いところに三の曲輪はあったのね。二の曲輪もよく見渡せるし、背後は荒川の斜面で敵もこないから安心♪鉢形城で一番標高が高いのがこの三の曲輪。だからこそ、広い曲輪があり、人をもてなす会所があったりするんですね。言わば生活面でいうと「ハレ」(生活の表の場)の舞台と言えるでしょうか。では続きはまた次回。「関東史跡まわり~その四~」をお楽しみに。
鉢形城は1476(文明8)年に関東管領・山内上杉顕定の家臣である長尾景春によって拠点になったと言われる。景春は主君・上杉顕定に反旗を翻したが1478(文明10)年には大田道灌によって鎮圧されると、鉢形城には上杉顕定が入城した。
その後鉢形城は、山内上杉家・後北条家・武田家などによって翻弄されるが、永禄年間には北条氏邦を城主として迎えている。現在の鉢形城史跡は、この北条氏邦の晩年頃の遺構であると思われる。
鉢形城は、1997(平成9)年から2001(平成13)年にかけて発掘調査が行われた。さらに2002(平成14)年から2004(平成16)年にかけて鉢形城公園整備が行われ、同年10月から「鉢形城公園」として一般公開された。近年は中世史跡の復元が徐々に増えつつあるが、やはり近世城郭と比べるとその数は圧倒的に少ない。鉢形城は関東近辺で中世復元史跡を見られる貴重なスポットである。
鉢形城の三の曲輪には、北条氏邦の時代に築かれたと思われる石積土塁がある。中世後期とは言え、石を使った土塁は珍しい。こういったものが近世になって立派な石垣になっていくんだろうなと想像できる。
さて、鉢形城三の曲輪の復元門は四脚門が復元されているが、これは鉢形城歴史館の資料によると「洛中洛外図屏風」に描かれている細川管領邸の板屋根を意匠しているという。実際の中世の城郭の門というのはどのようなものであったのか?「伝○○城の門が○○寺に移築されている」という話は良く聞くがこれは本当なんだろうか?中世の城郭の門というと、どのようなものみなさんは想像するだろうか。
上記写真は「鉢形城歴史館」前の模擬冠木門である。このような簡単な冠木門もあったと聞く。このような質素な門が大手門では敵に簡単に突破されてしまうだろうが、小規模な砦規模ならこのような門だったのだろうか。やはり中世城郭は復元されていないので、ビジュアルに乏しい。ゆえにこういう復元城郭はありがたい。
三の曲輪には、堀立柱建物の復元建築(休憩所になっています)もある。これは実際、柱跡が発掘されたのを元に復元している。しかし鉢形城では、礎石などが発見されず大きな建物跡がみつからなかった。これは城跡が田畑に利用されたためだと思われるが、完全再現復元は無理なのである。
ここ三の曲輪には堀立柱建物の他に庭園跡と見られる池の跡がある。福井県の朝倉氏一乗谷史跡に行って以来どうも最近自分の庭園を見る目が変わってきた。庭園がどのように生活の中で使われたのか。建物とどのような位置関係であったのだろうか考えるようになった。そこで私も堀立柱建物(休憩所)から庭園を眺めてみたのが下の写真である。
水草が生い茂っているのであまり眺めはよくない。が、それは置いておいて疑問がひとつ。わたしがこの建物の縁側に座って庭園を眺めながら茶(ペットボトルのお茶)でも一服しようと思っていると、何か違和感がある。やけに池との距離を感じる。そこで建物内で立ってみると、そこそこ見える状況となった。あとで鉢形城歴史館発行の『鉢形城指南』(12頁)をみてわかったことだが、やはり庭園は建物に近接して「座観」(座って眺めるべきだ)すべきものとされて、その考えに基づくと鉢形城の庭園跡はあてはまらなくなる。ひょっとすると、田畑の開発で失われた建物遺構があり、そこに近接した建物があったのかもしれないという。謎は膨らむばかりであるが、想像することが楽しい。
さらにこの堀立柱建物の近くには井戸跡があった。建物が会所(人をもてなす場所)とすれば、必然的にお茶を出したり、食事を出す必要がある。だからこそ井戸跡があるのは当然とも言える。
(三の曲輪から二の曲輪を臨む)
(三の曲輪から荒川を臨む)
ああ。こんな高いところに三の曲輪はあったのね。二の曲輪もよく見渡せるし、背後は荒川の斜面で敵もこないから安心♪鉢形城で一番標高が高いのがこの三の曲輪。だからこそ、広い曲輪があり、人をもてなす会所があったりするんですね。言わば生活面でいうと「ハレ」(生活の表の場)の舞台と言えるでしょうか。では続きはまた次回。「関東史跡まわり~その四~」をお楽しみに。