畠山義綱のきままな能登ブログ

畠山義綱が見てきた史跡を紹介します。
時々、経済や政治などもつぶやきます。

中世山城復元~高根城~

2008-08-13 14:52:02 | 歴史

 今日は、2006年の1月に訪れていたにも関わらずアップしていなかった復元された中世山城~高根城~をアップします。
 私がこの城を知ったのは、本屋で何気なく見た日本の城関係の本。その本に復元された高根城が紹介されていた。江戸城郭や復元された江戸城郭は何度の見ているし観光名所にもなっている。いったい室町期の城郭というのはどんなものなんだろう。しっかりとした室町城郭をイメージを膨らめるためにも、行かねばと思った。場所は静岡県水窪町(当時。現在の浜松市水窪町)。妻の実家がそれほど遠くない場所にあり、そこを基点に正月休みに出発。当日は雪が残っていて、バリバリのノーマルタイヤの我が愛車「能登号」で行けるのか?と心配しましたが、車道の雪は除雪されており安心。高根城のふもとまで車道が通っており、復元城郭まで歩いて15分ほどでいけます。
 高根城は遠江の北端にあり、室町時代は今川氏の領国下、奥山氏の拠点となっていた。ところが有名な桶狭間の合戦で今川義元が討たれ、今川氏の命運が傾くと高根城も武田氏の進攻にさらされることになる。元亀年間に武田氏下に入った高根城は駿遠攻略の最前線として大改修となる。復元された高根城は武田氏時代の遺構である。


 さて、復元城郭にたどり着くとなかなかの圧巻!このような道を室町時代の人は通ったのかと思いにはせる。入城するための道は細いのに、城からは一面壁がめぐらされており、防御は堅い。また物見櫓で敵の攻撃状況がひと目でわかる。なかなか手ごわい城である。


 いよいよ高根城入城。門の跡は発掘されているが、遺構では地中より上の門の様子は伝えられない。これは、おそらく洛中洛外図屏風や他の伝●●門などと同じような形で推定復元された門である。


 高根城の本郭から他の郭を見渡すとこのように、柵で囲まれている。この柵も遺構で確認されたものである。高根城は大名の居城ではなく、戦闘の最前線の城である。だからこそ本郭には壁があったのであろが、その他は柵等の簡単な防御施設程度だったようである。なるほど江戸時代のようなすべてを白塗りの豪華な壁で覆うのではなく、実質本位の造りである。さらにこの柵で囲まれた郭は相当な堀で囲まれている。かなりの高低差があり、郭同士は土橋や木橋でつながれていた。この柵の郭と本郭を見渡せるようにさらに下の郭に下りると、このように見渡せる。


 自分がいる場所(=郭)から本郭に上がろうとすれば、かならず柵の郭を通ることになり、ここで攻撃側は相当な守備側の攻撃にさらされる。室町時代の城郭は本当にうまくできているなあと感心する。本郭はかなり小さかったが、関が原合戦や大阪のような大規模な戦闘ではないなら、この程度の大きさで十分であろう。

 この高根城は、浜松市に合併する前の旧水窪町が町おこしの一環として、1993年から高根城を中世の城として復元整備するべく発掘調査が進められた。そして、2004年には3億円を費やして、本曲輪(ほんくるわ)部分に井楼櫓(せいろうやぐら)、主殿、城門が復元された。中世山城の本格復元は全国初とされ注目された。水窪町はいわゆる「平成の大合併」の流れで2005年7月1日に浜松市と合併し、消滅した。財源の効率化、無駄の節減、地方の切捨ての中、もし水窪町が合併される前に高根城復元が間に合わなかったら、はたして浜松市は高根城復元を考えただろうか?本当に「平成の大合併」という選択は正しかったのだろうか?この高根城のような地方の中世城郭が今後ももれないことを望んで、3年ぶりのコンテンツとして筆を執った。
 ちなみに、明日8月14日は千葉県佐倉市の「国立歴史民俗博物館」に行ってきます。ご報告できるものがあればアップしたいと思います。