畠山義綱のきままな能登ブログ

畠山義綱が見てきた史跡を紹介します。
時々、経済や政治などもつぶやきます。

国立歴史民俗博物館へ行って来ました~其の2~

2008-08-16 09:01:47 | 歴史
 今回は「国立歴史民俗博物館」(略して「歴博」)第2展示室・中世です。平安時代って中世?ってちょっと思ったりもします。武士が主人公となって活躍する時代が中世であり、平安時代は古代、鎌倉時代から中世の方がわかりやす気がしますが…。といっても平安時代中頃から、前九年の役、後三年の役、保元の乱、平治の乱などなど武士が活躍しているから、いいのかもしれませんね。


 最初の画像は平安時代の「東三条殿」の復元模型です。そうです。あの「この世をば~我が世とぞ思ふ~(下略)」というナメくさった歌を残した藤原道長の邸宅です。「平安時代は嫌いだからすぐに行く~」というのが昔の私ですが、ちょっとおもしろい点を見つけました。
 私は5月に平城宮に訪れたとき、遺跡庭園「東院庭園」にも行きました。「東院庭園」というのは、平城宮の南東の隅にある貴族の庭園跡です。この庭園は大きな池があります。その池には中島があったり、池を取り囲むようにして建物があってそれを見ながら会食や宴会ができるわけです。この奈良時代の平城宮「東院庭園」の基本的性格を、平安時代の「東三条殿」の庭園は受け継いでいるようにも思えます。写真を見るとやはり庭園の中心は池です。池に何本の橋があるほか、建物近くに小さな川があります。こういった川は、室町時代ではよく連歌に使われます。この川の小船が流れる前に次の歌を作るとか、返歌を作るとか。できなかった場合には罰として酒を飲み干す。なんとも優雅な遊びです。すなわち、まあ当たり前と言えば当たり前なのですが、奈良・平安時代に庭園が室町時代の元になっていると言えると思います。鎌倉時代の庭園というのはどんなものなんでしょうか?例があったら知りたいものです。
http://www.nabunken.go.jp/site/toin.html


 能登を勉強するようになって歴史の価値観が劇的に変わったのが、水運。百姓=農民とは違う。水運(漁業や海運で儲ける)の民もたくさんいるというのを網野善彦氏の著作で見て感銘を受けたものです。そこから能登を見る目も、「農業後進国=辺境」というイメージから「日本海交通の拠点=先進地域」という風に変わりました。さて、この歴博に来て鎌倉時代の船をみました。それがこの写真です。瀬戸内海の貨客両用船らしいです。基本的には帆で動きますが、風の流れが無いときには船の外にでているヒレみたいなところに人が乗って人力で漕ぎます。鎌倉時代に政権が関東の鎌倉に移ったことで、飛躍的に海運が発達したことと思います。それまで京都中心の物流でよかったものが、関東の鎌倉にも運ばなければならない。そこで早く大量に輸送できる手段は海運しかありません。きっと鎌倉時代にもこのような船がたくさん活躍していたと思います。ということは、鎌倉・室町期にはすでに安全に、そして定時的に海運で輸送するシステムができつつあったことになります。歴史の教科書では海運や陸上交通の発達は江戸幕府によるものという固定観念がありますが、それも改めなければと思います。


 この写真はなんだっけなぁ。歴博の「図録」にも載ってません。確か鎌倉時代の「一遍上人絵伝」を元に復元した備前・福岡の市だと思います。一遍上人のすげぇと思う点は、こういう絵を残したこと。当時の様子がよく伝わるよい資料です。特に備前福岡の市の様子は、賑わっているものだけでなく、三斎市以外の市が開かれない時の様子を描いていることです。市には無宿者が居座り、カラスもいる。つまり平時の市は人がほとんど寄り付かないということがわかる。まあそもそも、自分の経典すら最後は焼き捨てるような一遍様のこのような絵伝がなぜ残っているか不思議ではあるのですが。仮に創作だとしても、当時の様子を知ることのできる貴重なものだと思いますよね。


 さて、いよいよ私の一番好きな時代・室町時代にようやく到着。この時点ですでに13:00を超えている…。少し集中力も衰えてきたが、自分の一番好きなところだからがんばるぞ!
 写真は「洛中洛外図屏風」を元に室町期・京都・四条室町付近の様子を模型で再現したものである。この展示を担当されている歴博の研究員はおそらく小島道裕氏と思われる。私はこのひとのサイトをみてこの歴博に行きたいと思ったのです。小島氏はサイトで自分が研究している成果(論文)を発表しています。だから気軽に論文が見れるのです。予備知識として全部印刷して読み込んでおきました。
http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/kenkyuusya/kojima/
 小島氏は室町・戦国期の庭園に詳しく、まさしく私の最近の興味である遺跡庭園について解説してくれるすばらしい研究員なのです!やはり戦国期の庭園といえば研究対象として欠かせないのは「朝倉一乗谷史跡」でした。朝倉義景館の模型がありますが、私はこの辺は現地で学習しているのでおさらいになります。そして、この時代の町の研究で欠かせないのはやはり「洛中洛外図屏風」です。狩野永徳が室町期の京都を描いた作品です(歴博は上杉本を使っていました)。なぜこれが欠かせないかと言えば、中世の建物を復元する時に必ず登場するからです。というのも地中に眠る遺跡では、地上の様子までを完全復元はできません。ですので、それを想定復元するために必要なのが、この「洛中洛外図屏風」なのです。一乗谷史跡でも、これを元に復元建物を作っています。この「洛中洛外図屏風の景色を読む」という本が歴博で売っていて買おうかと思ったのですが、躊躇した挙句結局買いませんでした。それは、「犬追物」の存在です。この絵には犬を捕らえるシーンがあります。捕らえられた犬は武士の武芸の餌食になるわけです。動物好きの私にはそれがどうしても耐えられなくて(苦笑)。研究に必要なので、いずれはそれも歴史的事実として克服しなければいけないのですが…。


 さあ、いよいよ第2展示・中世最後の写真となりました。室町時代は大名という究極の地方分権の時代である一方、飛躍的に民衆の力が伸びた時代でもあります。平安時代に民衆は米を生産しながら自ら食することは叶わなかったのが、室町時代には二毛作などを経て生産が飛躍的に増加し、農民など庶民でも豊作など経済状況次第で米が食することができたのです。そのような時代だからこそ、京都だけの上流階級だけの文化のみならず、地方にそして庶民にまで文化が広がりました。地方では大名やその家臣が中心となって能や茶道が広がり、庶民でも田楽が広がりました。また、写真にあるように「煎じ物売り商人」がおり、一服一銭の茶売りがいたのです。つまり庶民にも茶の需要がかなりあったわけです。それだけの経済力を民衆が持っていたわけですね。