番外編→佐倉城址見学の巻
これ、何の写真だと思いますか?どうみても階段ですよね。しかもコンクリート。これは江戸時代の遺跡ではありません。戦争遺跡です。なんでも軍が高いところから飛び降りる訓練に使ったそうです。この階段の後ろに木製の階段がついていたのですが、それは撤去されて壊しにくいコンクリート部分だけが残ったようです。一番上まで上るとだいたい建物の2階分くらいの高さがあり、ここから飛び降りるのは確かに勇気が要ります。なるほど、戦争では階段がないところも多いのでこういう訓練が必要なんですね。
義綱「城跡って軍関係や公共施設が多い気がしません?」
先輩「だって城って守りやすい地形にあるから防御にはぴったりだよね。それに、公用地として接収しやすいでしょ。城跡なんて民間利用しようがないしさ。」
なるほど。現代になって城の歴史価値がやっと見直されて、公共施設の移転(金沢城跡の公立高校移転後、城が部分復元されている)などにつながっていますね。
それにしても今日は暑い。「国立歴史民俗博物館」(略して「歴博」)館内にいるときはエアコンでよかったが、外は暑い。汗が吹き出る。それに城址公園はとても広くて緑が多いから薮蚊が大量に寄ってきてなかなか離れない…。そんな中カワイイ光景を発見。看板にカエルがへばりついている。きっと日陰にある鉄板が涼しいのでしょう。動物は夏に冷たいところを探すのが得意です(現在うちにいる猫もそうです)。
佐倉城址は近世城郭なのであまり興味はないのだが、遺構がよく残っている。これは郭から下にいく入り口である。人口的に作った出入り口がこの遺構だけでも十分にわかる。
本丸までに行く二の門あたりに幕末の老中・堀田正睦(ほったまさよし)公の像がありました。ペリーが来たときの老中首座・阿部正弘の後を受けて老中首座となったのがこの堀田正睦である。実はこの堀田。その前にも老中になっています。中学・高校で習う天保の改革・水野忠邦の時代です。誤解されがちですが、老中というのは一人ではなく4人~5人いるのが普通です。その中で老中首座が老中の筆頭として権力の中心になるのです。天保の改革の時にはもちろん老中首座は水野忠邦でした。天保の改革は諸大名の反発が強くわずか2年で失敗に終わります。この時堀田も一緒に老中を罷免されました。彼が再び政治の表舞台で脚光を浴びたのは幕末でした。彼が老中首座の間、日米修好通商条約交渉問題、南紀派と一橋派の将軍継嗣問題など大きな問題が山積でした。結局、条約問題では不平等条約を結んでしまうし、将軍継嗣問題では一橋派についたためやめさせられてしまうなど、その行動から以前は堀田を「無能の指導者」と評する動きが多かったのですが、最近は変わってきました。もとよりの蘭学好き・開国論者であり、混乱期幕末の幕府外交を一手に支えたわけです。結果はどうあれ評価する部分は当然だと思います。で、その堀田の銅像がなぜあるかというと、彼は佐倉藩藩主だったそうなんです。へぇ~。堀田の外交相手となったハリス像もありましたが、強硬・わがままハリスは義綱嫌いなのでアップもなし。
義綱「異人なんて認めん。日本は神国。夷荻との貿易なんてもってのほかである!」
先輩「あれっ?義綱さんは佐幕派じゃないの?だったら開国派でしょ?それじゃあ尊皇攘夷じゃん。」
義綱「……。次行こう!」
本丸に入る一の門には、豪華な門があったらしい。建物の柱らしい箇所が写真用にコンクリートで表されています。さすが近世城郭。門もデカイ。
ここ佐倉城は近世城郭にしてめずらしく土塁であり、石垣は使われなかったそうだ。そんな近世城郭もあったのね。
さあさあ、約一時間も佐倉城址を周りましたので、そろそろ足も疲れてきたので帰りましょう。
これで日帰り「国立歴史民俗博物館」レポートを終わります。みなさんもここ訪れるなら見所いっぱいですので、朝早いうちに着いていた方がいいと思います。佐倉城址は歴博の閉館後が効率良いと思います。ああ!おもしろかった!