畠山義綱のきままな能登ブログ

畠山義綱が見てきた史跡を紹介します。
時々、経済や政治などもつぶやきます。

国立歴史民俗博物館へ行って来ました~其の5~

2008-08-19 18:20:28 | 歴史
国立歴史民俗博物館の展示室は以下のような構成となっています。

第1展示室…古代(縄文~奈良)
第2展示室…中世(平安~安土桃山)
第3展示室…近世(江戸)
第4展示室…民俗
第5展示室…近代(幕末~大正)
第6展示室…現代(2010年3月まで改修中)
そして、企画展示室。

 これだけの展示室が「国立歴史民俗博物館」(略して「歴博」)にはある。9:40に到着して第1、第2、企画展示とみて来たが、もうすでに時間は16:00。第3、第4、第5の展示室のうち閉館時間の17:30まで比較的ゆっくり見ることができるのはあと一箇所くらいである。とりあえず今いる企画展示室から一番近い第5展示室・近代へ。

 写真を撮るのを忘れていましたが、第5展示室で一番最初に私が驚いたのが「サムライがエジプトのスフィンクスの前で記念写真」でした。
義綱「江戸幕府の侍がエジプトに!?」
先輩「この写真は、幕府がパリの万国博覧会に出品した帰りにエジプトに寄って撮ったものだよ。」
ああ~!確かに受験勉強の時に幕府が万国博覧会に出品したとか覚えたわ~。さすが先輩。中世ではなんとか知識に差は無いかもしれなけど、それ以外の時代になると圧倒的な知識量の差。先輩尊敬します!
次に目に飛び込んできたのが「明治政府の遣欧米使節団の天皇の委任状」。明治初期、日本が結んだ不平等条約の解消を目指して交渉しようと思った明治政府は、元首である「天皇の委任状」がないと交渉できないと言われて、慌てて取り寄せたというもの。
先輩「明治政府の人たちは、薩長中心の今まで国政を担ったことない人たちだからこういう失態を犯したんだよね。もし、委任状が無いなら無いなりに交渉もできたはずだけど、外国にうまく丸め込まれちゃったんだね。これが幕府ならこういうことにはならなかったろうね。幕府は官僚だからこういった世界事情に通じていたからね。」
すごくなるほど!と思った。確かに幕府の官僚はペリーが来たときにアメリカ大統領の国書を受け取っている。米国元首の国書を持っているペリーの一行は、正式な使節であると認められたわけで、それを受け入れば正式な国と国との交渉を始めなければならない。だから国書を受け取ることに幕府は悩んでいたわけね。そして、国書を受け取らせたペリーが何の成果もなしに一年間の返事の猶予を与えて帰国したことも不思議に思っていたのですが、これで解決。すなわち国書を受け取る=正式外交の開始を示すもの。それだけでも十分成果があったわけですね。幕末の幕府官僚というと、勝海舟の影響か「幕府は弱腰で、外国相手にどうにもならん」というイメージがあったのですが、どうやらそのイメージも固定概念のよう。よく調べると、日米和親条約交渉の時もペリーを相手に幕府官僚は(かなり不利な条件になりそうなのを)うまくかわしているし、万国博覧会の出品しかり、本当は世界事情に通じていたからこそのペリー開国劇だったわけだ!


 これは明治時代の小学生に与えられた紋章みたいなもの。就学児童にはこれを渡してつけさせて、未就学児童と区別し就学率をアップさせようとしたものだそうです。明治政府と言えばなんでも上からの「あれやれ!これやれ!」と言いそうな気がしますが、こういう物でつったりしてなりふりかまわず就学率を上げていたんですね。


 これは横浜港の模型の写真です。写真ボケでよくわからないかもしれませんが現在でもある「赤レンガ倉庫」が写っています。開国・文明開化で日本は近代的な国に生まれ変わりましたが、それと同時に多くの格差社会やひずみを生み出したわけです。その一例が歴博の展示にありました。まずは部落差別問題。「身分解放令」によって平等になったはずの江戸時代の「えた・ひにん」の身分の人たち。しかし、明治政府は差別対策をしなかったため、その後も差別は続いたというのは中学・高校で習ったと思います。具体的な差別として、歴博の展示で「被差別部落民への差別戒名」というのがありました。明治期になっても差別された人たちは、動物を表す「畜」やいやしいという意味の「卑」など、差別的な戒名をつけられました。
先輩「死してまでも差別され続ける…。本当にひどいよね…。」
 次は北海道開拓問題。アイヌへの差別「旧土人法」、開拓には屯田兵や旧幕府方だけでなく、囚人も利用されたこと。囚人は悪環境の下、鉄のおもりを足に結ばれたまま開拓作業をさせられた…。教科書の重要なところには取り上げられないところに真の歴史のおもしろさや残酷さがあると痛感させられます。


 写真は、大正時代に建築された「同潤会アパート」の台所。今で言えば六本木ヒルズのような最新の住まいです。水道・ガスの完備など、西欧化もようやく民衆に根付いてきたのがこの時期です。ちょうど政治も大正デモクラシー・憲政擁護運動を経て立憲政友会と立憲民政党の二大政党による「憲政の常道」で、安定化していく時代でもあり、日本型の文明開化が完成した時期とも言えるでしょう。

 この写真は、大正~昭和初期の町並みを部分復元した展示の写真です。このような本格的な復元を見ようと思えば次の2つの施設がお勧めです。
「江戸東京博物館」(両国)
http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/
「江戸東京たてもの園」(東京都小金井市)
http://www.tatemonoen.jp/
 たっぷり近代の雰囲気を味わうことができました。さて現在時刻17:15!閉館まであと15分なのに、第3展示室・近世へGO。


 15分では当然ゆっくり見ることもできません。私が時間がない中注目したのは、日本と海外の貿易でした。江戸時代初期、日本の輸出のほとんどは銀でした。その為貿易赤字となり幕府の財政も悪化していきます。古典的な政治経済学者の新井白石は貿易の抑制を考えますが、先進的な経済学者(?)である老中・田沼意次は中国へ俵物の輸出を始める。俵物とは、ナマコやフカヒレや海草などの海産物を俵に詰めたものである。今も昔も中国はグルメ大国。食べれるものは何でも食すというお国柄。それを利用して製品輸出の拡大と赤字減少をさせた田沼はエライ!(賄賂はよくないけどね。まあ大分県の教育委員会もやってるしなぁ~。)
 残念ながら閲覧者は私たち2人しかおらず、学芸員が閉館作業を始めている中ゆっくりみることもできなかった。そして17:30ちょうどに展示室を出る。17:02に歴博ロビーに行くと、書籍販売コーナーももう閉店。まだ2分しか経っていないのに…。
 ロビーには夏休みらしく親子連れなど子どもが比較的多いように思える。小学校3年生の男の子が「もうちょっとみたいよ~」と父親にせがむ。歴史好きの父親にとってはガッツポーズしたいくらいの嬉しい言葉でしょうね。連れて来た甲斐がありますよね~。私もそんな風に我が嫡男にいってもらいたいが、我が正室(妻)には「あなたとお義父さんも歴史好きだから、やっぱうちの子も歴史好きに?やっぱり、歴史より将来の職業に役に立つ理系を勉強しようね。」という。ふん。環境も大事だが遺伝は強い。妻も理系はずば抜けてできたわけではない。やっぱりこの子は文系に育つだろうなと思っている。閑話休題。

先輩「ねえ。佐倉城址もちょっとみてかない?」
歴博がある場所は、江戸時代に佐倉城あったところである。っていうことで、小一時間ほど佐倉城址見学をした。以後次回。