畠山義綱のきままな能登ブログ

畠山義綱が見てきた史跡を紹介します。
時々、経済や政治などもつぶやきます。

「変革」が起きる頃合は?

2008-08-26 22:09:41 | 歴史
 1987(昭和63)年に国鉄(日本国有鉄道)は巨額な赤字を抱えたために、民営化され、JRになった。他にも民営化されたものに日本電信電話→NTT、日本専売公社→JT、道路公団→NEXCO、郵政公社→JPなど民営化されたものは多々ある。国の仕事から民営化される時にはほぼすべてのケースで反対者が多数いたが、世論に押し切られ民営化を達成した。
 今から1993年にはリクルート問題に端を発して政治改革がさけばれ非自民連立内閣が発足し、55年体制が崩壊した。2001年に森内閣で支持率が急激に低下し、選挙に勝てないと踏んだ自民党の議員たちは、それまで異端児扱いしていた小泉を総裁に選んだ。2007年には年金問題が紛糾し、社会保険庁が年金機構に変わることになった。社会の変化は日常なかなか見られないが、後で大きな変化だったと思うことはままにある。これらの社会の大きな変革に共通していることは?
 さて、時代は遡って室町・戦国時代。応仁の乱以降、室町幕府を支える守護大名はどんどん没落していく。代わって戦国時代で地方を支配したのは各地域の戦国大名だった。戦国大名の出自は大きく3パターンに分けられるという。
(1)守護大名が戦国大名に変化したパターン
 ※甲斐武田家、駿河今川家、薩摩島津家、能登畠山家など
(2)守護大名の守護代が主家を乗っ取ったパターン
 ※越前朝倉氏、越後長尾氏、出雲尼子氏、近畿の三好氏など
(3)国人領主が戦国大名にのし上がったパターン
 ※安芸毛利氏、土佐長宗我部氏など
 戦国大名になったパターンでは(1)の守護大名から戦国大名になったケースが多いのではなかろうか、いや、言い方を帰れば「守護大名のまま戦国期まで残った大名」と言えるのかもしれない。ただ、(2)や(3)の方が戦国末期まで存続したケースが多いと思う。これはなぜだろうか。なぜ守護大名は戦国大名に転化することが難しかったのだろうか。
 それは冒頭に書いた「社会の大きな変革」に共通して言えることにつながると思う。(2)や(3)のケースでは守護大名という目標を倒すために領主の下で団結する必要がある。つまり「権力を強化する理由が存在する」のである。しかしどうだろう。守護大名の場合は、応仁の乱以降すでに自らが国にトップになっているわけで、順調に国の経営が行われれば「変革」は必要ない。言い換えれば「権力を強化する理由がない」とも言える。
 1515年~1545年は能登畠山家の全盛期を築いた畠山義総の時代である。領国が安定し、能登の国も栄えた。しかしどうだろう。守護代制は続いている。確かに遊佐嫡家を退けて遊佐庶家に守護代を任じるなどの対応はみられるが、それ以上の国内的な権力強化は行わなかった。いや、行う必要がなかったのかもしれない。むしろ義総の興味は幕府や朝廷など国外での権力強化にあったように思える。1552年~1566年という戦国後期に能登の守護となったのは畠山義綱である。前当主・畠山義続の時、内乱が頻発しており、大名権力がないがしろにされていた時期でもあった。大名権力を回復するために1555年、家中で専横を誇る温井総貞を義綱は殺害し、義綱専制期と呼ばれる時代が始まる(1555年~1566年)。この時期に守護代の職は見えない。義綱が自分の政策を実行するために近臣層である奉行人を重用したためだ。義綱の興味は国内権力を強化することにあった。だからこそ、1408年~1577年の170年の能登畠山家の治世で一番大名権力が強い時代になった。それは、家中が混乱し「自身がなんとかしなければ滅亡する危険性があった」からこそなし得た「権力強化」であった。滅亡の危機にあるからこそ、家臣層も義綱の専制を受け入れたとも言える。
 社会が変革を迎えるには、大きな世論が必要である。そのためには、対象となる人たちが大きな危機感(あるいは目標)を抱えていなければなし得ない。戦国時代では、守護大名より圧倒的に守護代や国人層の方が世論を得やすく、権力強化が達成しやすかったのかもしれない。
 話を現代に戻そう。今の日本は「改革」という言葉が当たり前のように使われる。新聞を見て初めて知ったが、「政治改革」という言葉が使われたのは、1993年が初めてだそうだ。「改革」という言葉が多く使われる現代日本は、多くの人たちが「危機感を抱いている」証拠である。景気が悪い悪いと言われ続けてもう15年以上が経つ。そろそろ「改革」が実を結んで「安定」に入らないものかな…と日ごろ思っている私。きっと自分は「変化」に弱いのだろう。私が戦国時代の大名ならば、とっくに下剋上されていることだろう。生まれた時代に感謝したい。