畠山義綱のきままな能登ブログ

畠山義綱が見てきた史跡を紹介します。
時々、経済や政治などもつぶやきます。

新潟・長野へ歴史旅行~其の3~

2010-09-16 14:41:00 | 旅行・観光
 前回までのあらすじ。春日山城を攻略しました。


 最近室町時代の庭園にハマっている私。前々から行きたかった長野県中野市の「高梨氏館跡」に行きました。前日に泊まった斑尾高原のホテルの方が「何もないですよ」と言っていましたが、歴史マニアには必見のものがたくさんあります。



 現在、「高梨氏館跡」は史跡公園になっており、結構広い駐車場があります。



 「高梨氏館跡公園」の出入口です。

 駐車場のがある南側には2つの出入り口があります。あいにくの雨でしたが公園内は歩きやすく、むしろしっかりと整備手入れされています。



 公園には四方を空堀と土塁が囲んでいます。しっかりと整備されているのがいいですね。空堀も結構な深さです。


 南側に築かれた土塁は昔に築地塀があったようで、館の変遷が発掘調査からうかがえるそうです。最初に築地塀が築かれ、次に両側から土が盛られて築地塀の頂上部だけ残った。そして最後には現在のように全部が埋まった土塁ができます。高梨氏館は近世資料によると、1515(永正12)年の築城と言われます。文献資料では、1513(永正10)年に中野氏の残党を排除し、現在の中野市地域の支配権を高梨氏が確立したと言われるので、一致します。年代的に築地塀の時代は高梨氏館以前のものとみられるそうです。



 館内でまず気になったのが排水溝です。館内を各建物を画するように張り巡らされています。

そしてその排水溝は空堀に繋がって排水したみたいです。このことから、設置された溝は一続きで機能していたと思われます。館の南西にある大きな庭園にも溝がつながっていることから、庭園の池に給水していたものと思われます。



 こちらの石積方形竪穴は、排水溝からは離れているし、なんの遺構かわかりません。それとも排水溝から暗渠で繋がっていたのかな。



 さて、「高梨氏館跡」の一番のみどころの庭園です。かなりの規模があります。池の端に大きな景石が配置され強力なアクセントになっています。池の真ん中に大きな石があり、中島となっています。京都の将軍の御所を模してつくられたのでしょうか。池の後ろに石組みの溝があります。

 この庭園の後ろにある南北の溝が排水溝となっており、前掲の写真にあった空堀に流れる暗渠に水路がつながっていきます。

 公園の説明版には発掘調査当時の庭園の様子が掲載されています。さらに説明文にこの庭園は当初は、水の流れる庭園だったようですが、後で人為的に池につながる溝が廃棄され、枯山水庭園へと変化したと説明版には書かれています。



 庭園は客人をもてなすためのものであり、庭園に近いこの建物が会所だったと考えられます。うん?よくわからないですか?一応建物跡には平面展示がしてあるのですが…写真だとみずらいですね。ていうか1995年に完成して以来補修はされていないようで、ちょっとみずらくなっていますね。それでは、発掘調査の図面を見てもらいましょう。

 公園内の看板では8つの建物跡しか書いていませんが、館の内部からは12棟の建物跡が見つかっています。勝沼氏館(山梨県甲州市)で館の中心地に「常の御座所」「主屋」「くつろぎ所」の3つの建物が隣接していました。「常の御座所」が主人のプライベートルーム、「主屋」が主人のオフィスルーム、「くつろぎ所」が主人のリラックスルーム(休憩所)だったと思われます。これに接客用の「会所」を入れると4つとなり。館の役割が見えてきます。高梨氏館跡では、遺構の残存状況が悪く、建物跡の考察までは至らないようです(『高梨氏館跡-発掘調査報告書-』より)。では、勝沼氏館を例に、高梨氏館の図面を私的に分析してみましょう。

(↑画像は公園看板に筆者加筆)
「ハレの部分」とは客人が来るなど非日常的空間。だからこそ館内部の表部分しか見せません。みごとに東西の館入口とリンクしています。一方「ケの部分」は、生活の基盤となる日常生活の部分です。西側北小口が勝手口のような役割をしていますね。「ハレの空間」にある庭園に近い建物がもちろん「会所」です。会所から近いところを「主殿」(主屋)としてみました。またその西側に「くつろぎ所」かな?と思います。あるいは主殿とくつろぎ所は逆かもしれません。主殿の北側にあるのは館での生活の中心となるので面積的に広く、「ケの空間」の真ん中に位置するので「常の御座所」と考えてみました。公園の看板の説明文では、池の傍にある私が会所としたところを「主殿」と推測しています。どうでしょう、会所と主殿というのは同じ建物の場合もあるんでしょうか。
 この公園内の館案内図を見てもう一つわかったことがあります。私が通ってきた駐車場がある南側の出入口の2つは古来からの小口ではないようです。案内図では東側に1つ、西側に2つの小口しかありませんね。ならば、なぜ南側に駐車場を整備し、南側に出入り口を2つ設けたのか疑問です。



 写真は北側土塁の上に立ち、東側土塁や庭園を撮ったものです。東側土塁近くにある3棟の建物はいずれも掘立柱建物で、敷地も総柱であり、倉庫としての役割を持っていたと思われます。



 西側南小口から公園内をみた写真です。公園内は草なども丁寧に刈られており、管理が行き届いています。ひょっとしたら高梨氏の末裔が管理を請け負っているのかもしれませんね。また、綺麗なトイレなどもあり、利用しやすいです。確かに一般受けはしなかもしれませんが、丁寧に管理整備されている点が好感を持てます。やるな!中野市!


 庭園の北側にはなにやら石碑が2つ。関係ないかな…と思っていると、江戸時代と明治時代に書かれたものらしく、読める部分だけ見ると高梨氏関係のようでした。


 公園内に普通の住宅がありました。まさか高梨氏の末裔の高梨さん?と思っていましたが、表札や説明文などもなく、わからないまま。しかし、宅の内部は生活感があり、現在でも人が住んでいるようでした。
 『高梨氏館跡-発掘調査報告書-』によると、近世の高梨氏館は秀吉時代に上杉景勝が会津に転封になった時に、高梨氏を含めて移転したため高梨氏館は無主となり、荒廃していったと言います。明治の世の地租改正で高梨氏館は官有地となり、尾張へ退いていた高梨氏の末裔が、先祖の土地を払い下げ運動をした結果、高梨氏が300年ぶりに高梨氏館に住むことになった。そこで館中央北寄りに、高梨氏一族が邸宅を設け住んで、昭和の世に至るまで館跡を守り続けたという。昭和の終わりごろ、遺跡の管理を高梨氏一族に代わって中野市が管理・保存することになり、改めて発掘調査が行われ、史跡公園として整備されたと言う。
 となると、この公園内の住宅は高梨氏一族の末裔の住宅となるわけです。史跡公園内に住むというのはどんな気分なんでしょうね。


 さて、「高梨氏館跡公園」を周るだけでも十分歴史を堪能できますが、ここはぜひちょっと足を延ばし「中野市立図書館」へ行きませんか?

 ここにはさきほどから紹介した『高梨氏館跡-発掘調査報告書-』(中野市教育委員会、1993年)が置いてあります。公園内の住宅がなんだったのか、この図書館で発掘調査報告書を見なければわからなかったことです。また同本は、庭園や排水溝などの発掘調査だけでなく、わかりやすく高梨氏歴史をまとめており、地域の歴史を知るには十分な本です。この図書館は建物もきれいで蔵書も多く、司書の方も応対が丁寧でとても快適な利用環境でした。館跡の訪問の後にぜひこちらで勉強をおすすめします。