ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

『隅田川』について(その10)

2007-05-23 00:40:44 | 能楽
「思ひは同じ」「恋路なれば」とワキへ二足ツメたシテは地謡が「我もまた」と謡い出すと正面へ向いてヒラキ、「都鳥」と据拍子を二つ踏み、そのまま打切を聞いて返シより舞い始めます。「我が思ひ子は東路に」と右ウケて遠く見、「ありや、なしやと」気をカケテ正面へ向き、向こうを見てツカツカと出、角の手前にてトメ、すぐに「問へども問へども」と右ウケ、二足ツメながら面をツカヒ「答へぬはうたて都鳥」と都鳥を見廻します。

先にシテがワキの船頭に都鳥について尋ねるとき、『伊勢』にある「名にし負はば、いざ言問はん都鳥、我が思ふ人はありやなしやと」を引きながら、シテはふと、右の方を見やって白い鳥を認め、「なう舟人。あれに白き鳥の見えたるは、都にては見馴れぬ鳥なり。あれをば何と申し候ぞ」とワキに向いて問います。川面の少し向こうの方に都鳥は浮かんでいるのです。この「狂イ」でも、先ほどのこの場面と同じ所をシテは見やります。さらにもう一度都鳥を見る型がすぐ後にあるのですが、もちろんそれらの型も、都鳥の居る場所は同じであるように注意しなければなりません。

その次に問題の型があって、「鄙の鳥とや言ひてまし」と正面に直すのです。

正面に直す。。つまり正面に向き直るだけなのですが、何でそれが問題の型なのか。でも ぬえは、初めて『隅田川』を勤めたときに、この型が『隅田川』で一番難しい型なのではないかと思いました。それは、この何気ない型が、シテの性格を大きく決定づけるかも知れないからなのです。シテは我が子を求めて遠く都から旅を続け、今日武蔵・下総の境に流れる隅田川に到着しました。彼女の強い性格は、子を求める母ゆえに形作られたものかも知れませんが、いやじつに強力。そしてまた「都鳥」をめぐって『伊勢』を引き合いに出す姿に、観客は彼女の都人としてのプライドのようなものを感じるはずです。『伊勢』の東下りの段のまさに当地に住む船頭が、『伊勢』についての教養を持って都人であるシテに当意即妙の答えを返す事ができない事に不快感を示してシテが二度まで言う「うたてやな」(=嘆かわしいこと。情けない)。でもこれは、都人としてのプライドを持ったシテが、田舎者の一介の船頭に過ぎないワキを軽蔑して言った言葉ではありません。

先に船頭とワキツレの旅人とが会話した内容によれば、彼女は「人の多く来」る中に囲まれているのであって、それは旅人の証言によればすでに旅人の「昨日の泊りにあ」って、「女物狂ひ」と、人々によって定義づけられていたのです。とすれば、彼女が都からずっと囃し立てられながら旅を続けてきたことは容易に想像できるでしょう。そして、彼女がじつは狂人などではなく、人買いにさらわれた我が子を尋ねて、悲壮で絶望的な旅を続けている、とは誰も知らず(観客だけがその事情を知っている。。)、彼女は無責任な妨害に遭いながら、一層困難となった旅を、無理解と戦いながら切り開いてきたのです。

そして隅田川の川畔にたどり着いた彼女は、またしても船頭によって妨害を受けているのです。「たとひ都の人なりとも、面白う狂へ狂はずは。この舟には乗せまじいにて候」。。後に彼女の理解者となる船頭は、この時にはまだ庶民の一人、彼女を囃し立てる多くの人々の一人にしか過ぎません。そこで彼女が船頭に返して行った事は、狂人を装って謡い舞って船頭を満足させる事でもなく、事情を説明して自分は狂人でないことを主張する事でもなく。「うたてやな隅田川の渡守ならば。日も暮れぬ舟に乗れとこそ承るべけれ。形の如くも都の者を。舟に乗るなと承るは。隅田川の渡守とも。覚えぬ事な宣ひそよ」という、船頭にとって思いも寄らない『伊勢』を引き合いに出しての理知的な反駁でした。

無教養を「狂人」に指摘された船頭は赤面して、また彼女の知的な素地を認めざるを得なかったでしょう。これは彼女が困難な旅を続けて来た中で自然に身につけた防衛策の一種でもあるでしょうが、ぬえはもっと、したたかな、強さを彼女の中に思うのです。