ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

『砧』~夕霧とは何者か(その6)

2013-04-03 01:27:01 | 能楽
シテはここで後見座にクツロギ、物着(装束を舞台上で着替えること)をします。物着といってもいろいろありまして、まるっきり姿が変わってしまう『杜若』のような大変な例もありますが、『羽衣』のように長絹を羽織るだけ、というものもあります。『砧』ではシテが唐織の右袖を脱ぐだけなのであまり手間は掛かりませんが、シテは着座したままなので、装束が崩れないように後見は注意を払います。

ちなみに右袖を脱ぐのは労働や作業をするしるしで、砧を擣つのはツレ夕霧が言うように「賎しき者の業」なのであって、九州地方の有力者と目される蘆屋某の北の方としては、侍女相手とはいえ体面もなく「賎しき者の業」に身をやつしてまでも、夫に思いを伝えたいという追い詰められた気持ちなのでしょう。

ここに至って、であれば、ツレ夕霧がワキの伝言。。「この年の暮には必ず下る」をシテに伝えない、という事を問題として取りざたする事はできる、と ぬえも思います。妻がここまで思い詰めているのですから、妻を安心させようとする夫の伝言は夕霧によって伝えられなければならないでしょう。

しかし、ここまで場面が進んできた今、少なくとも脚本の流れから言えば、その伝言の通知は舞台の進行を妨げることにもなりますね。。ぬえは思うのですが、台本の上では省略されていても、じつは伝言はここまでの間に、妻に伝えられていたのではないかと思っています。それでも夫の帰りを三年間も待ち続けた妻にとってみれば、すでに夫への疑念は、少なくとものちに疑念に膨らんでしまう夫の不在への喪失感と孤独感は、相当に大きくなっていて(しかもシテとツレとの問答からは、三年の間、夫から妻へ何の連絡もなかった、とも読めますし)、侍女を遣わして伝えた夫の伝言も、まだ不在が長引くことの言い訳にしか聞こえなかったのではないか、と感じるのです。

さて舞台に戻って、シテが物着をしている間に、一人の後見が切戸から砧の作物を持ち出し、脇座に据えます。

砧の作物は無紅紅緞(観世流のほかは紅入紅緞が定めとのこと)で飾り、白水衣を丸棒に巻き付けて上に置きます。このところ、ツレは地謡の前に着座しているのですが、後見は砧を、そのツレの後ろ。。ツレと地謡の間を通って脇座に据えることになっています。このようにツレが地謡座の前に着座する際は、基本的には地謡にくっつくように座って、シテが演技を行う舞台を広くとるようにするのですが、『砧』ではこういう事情があって、ツレは地謡よりも少し前へ出て着座するのです。あまり前に出ては、今度はシテの演技の邪魔になるし、着座位置が難しいところですね。もっとも最近では砧を脇座でなく正先に置くことも多いようです。この時は後見はツレの後方を通る意味がないので、舞台の中央を通って作物を出しますし、ツレも地謡にくっつくように着座します。ただし、これは常とは違う替えの型があるわけではなく、あくまで演者の工夫によるもので、今回が初演の ぬえは本来の型。。脇座に作物を出す型。。で勤めさせて頂きます。

シテについては、些末ながら、この物着のためにシテの装束は、楽屋で着付けをする段階からすでに、唐織の左の肩と下に着る摺箔とを糸で綴じ付けてあります。右肩を脱いだ唐織は左の肩だけで上半身にかかっているので、糸留めをしておかないと左肩も脱げてしまうんです。なお『砧』では前シテの唐織の着付け方は俗に「熨斗着け」と呼ばれている、熨斗。。熨斗袋についている、アレ。。のように胸を大きく開いた形で着付けますが、この物着で右肩を脱いだら、同時に襟を(普通の着物のように)巻き込みます。ここがちょっと後見も手間がかかるところかも。

なお、この物着の後の、いわゆる「砧之段」がこの能の最初のクライマックスといえるほどの重要な場面で、このとき唐織を脱いでむき出しになった右手の摺箔の袖が銀の小模様だけ(無紅の装束を着る場合、その下に着る摺箔の一般的な文様)ではちょっと見た目が淋しいためか、『砧』では白地と浅黄などの横段の摺箔を着ることが多いです。段の摺箔はとってもオシャレですが、『砧』以外ではまず見ることはないですね(類例に『籠太鼓』がありますが、こちらは銀小模様の摺箔の場合が多いように思います)。

物着の間は笛と大小鼓が「物着アシライ」を演奏します。物着が出来上がるとシテは立ち上がり、正面に向いて舞台に入り、シテ柱の前で謡い出します。

シテ「いざいざ砧擣たんとて。馴れて臥猪の床の上。
ツレ「涙片敷く小莚に。
シテ「思ひを延ぶる便りぞと。
ツレ「夕霧立ち寄り諸共に。
シテ「怨みの砧。ツレ「擣つとかや。

「思ひを延ぶる。。」あたりでシテは作物に向き行き、ツレも立ち上がって脇座に行き、砧の作物をはさんで二人向かい合って着座します。