ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

『砧』~夕霧とは何者か(その7)

2013-04-05 15:55:48 | 能楽


作物をはさんで座った二人。いよいよ砧を擣つ場面になるはずですが、実際はすぐにまたシテは立ち上がり、シテ柱に移動します。同じくツレも立ち上がって元の座。。地謡の前に戻って着座してしまいます。

せっかく砧の前に座ったのになぜ? 。。じつは意味としてはここは、二人はずっと砧の前に座っているのです。シテが立ち上がってしまうのは、砧を擣つのをやめたわけではなくて、着座して、さて砧を擣ち始めるまでのほんの短い時間に彼女が思いめぐらす心の中を、その心象風景を動作によって表現しています。実際の時間としてはほんの2~3分、ツレ夕霧が「あれ?。。擣たないんですか?」と言い出さない程度の短い時間に、シテが砧を擣つという行為に思いを込める、その心の動きをシテの所作によって表しているのです。

これ、能に特長的な独特の表現手法かもしれませんね。「シテ一人主義」とも評される能ではこのように演技の多くがシテの心情の描写に費やされることが多いです。能が育てられてきたヒエラルキー社会の影響なのでしょうが、逆説的に現代的な「個人主義」とも通じるものだとも言えるでしょう。もっとも個人の内面を描き出す能の手法は現代的ではあるけれども、『砧』のような悲しみの感情であれば必然的にそれを表現する所作も抑制的にならざるを得ません。現代のスピード社会の中では、すべてのお客さまにこうした抑制された微妙な感情表現に波長を同期させて頂くような鑑賞法は難しいかもしれませんね。このあたりは能楽師も説明したり実演するワークショップの機会を増やすなど、新しい観客層を開拓していく責務があります。

ところでちょっと例えは変かもしれませんが、このような能のシテの心理描写は『ハムレット』のあの長大な独白にも似ているようにも見えるかもしれません。。ところが両者はじつは全く性質を異にしています。『ハムレット』では、あの独白をとばし読みすると、ストーリーの展開がわかりやすくなりますね。ぬえが特殊なのかなあ、『ハムレット』を読んだときは、まず独白を飛ばし読みして全体のストーリーをつかんでから、改めて主人公の心理を表す独白を読み込むことで場面の雰囲気を深めていきました。ところが能では、この心理描写をなくしてしまうと、とたんに物語が薄っぺらくなったり、それどころかストーリーが繋がらなくなったりしますね。

それほど能の中ではシテの心理描写は重要なのだと ぬえは考えています。極言すれば、能にとってはシテがどんな人物で、どのような背景があって、ある事件が起きたか、という事はあまり重要ではなく、その事件によって生じたシテの、多くは極限状況の心理を舞台に描くことに主眼が置いてあるのでしょう。能『葵上』を見るとき、本説が『源氏物語』の有名な車争いの場面であることとか、六条御息所がどのような境遇の生い立ちを送ってきたか、また彼女の葵上との関係などは、知らなくても鑑賞に大きな不利益はないでしょう。この能のテーマは「嫉妬」なのであって、性別を分かたず誰にでもあるこの感情が、人をして鬼に変えてしまうことがあるのか、という点が能『葵上』には描かれ、またお客さまに問いかけられているのだと思います。能では女性の役であっても女声を真似た声色などは一切用いず、男性の役者のそのままの声で演じますし、また堅い装束も身体の線を隠して、あえて女性の姿にリアルに見せようとしないわかですが、ここらへんの理由も ぬえは同じところにあるのだと考えています。

言いたいことはありますが、このままだと脱線したままなので『砧』に戻って。。

地謡「衣に落つる松の声。衣に落ちて松の声夜寒を風や知らすらん。
地謡「衣に落ちて松の声。夜寒を風や知らすらん。

シテとツレは砧の作物に向き合って着座し、地謡がこのように謡います。「次第」と呼ばれる短い小段で、最初に謡われる3句は地謡はしっかりと声を出します(もっとも『砧』のこの場面らしく、しっとりと重厚に、という感じですが)が、次の繰り返しの2句は、ささやくように低吟されます。この低吟を「地取り」と呼んでいて、「次第」の大きな特徴です。ご存じの通り「次第」は能の冒頭のワキの登場によく使われるのですが、この場合もワキは3句を高吟し、地謡がそれを引き取って「地取り」を低吟します。『砧』のように地謡が「次第」を謡う場合を「地次第」と呼んで『羽衣』など例は多くありますが、この場合も最初の3句も「地取り」の2句も、すべて地謡が謡うのです。

ところが。。『砧』のこの「地次第」はシテにとっては難しいところでして。先ほど言ったように「次第」の3句はシテとツレは着座しているのですが、「地取り」になって、シテは立ち上がり、地謡が2句を謡う間にシテ柱まで移動しなければなりません。走って行ければ簡単なのですが、これほど静謐な場面ですとそういうわけにもいきません。ましてや、ここで移動することは、取りも直さずシテが心象風景の中に移動する事を意味しているのであって、その移動する背中で、お客さまをシテの心の中に誘導しなければならないのです。理想としてはシテは「いつのまにか」シテ柱の前に立っていなければならず、意味としては作物の前にはいつまでもシテの残像が残っていなければならない。。まあ、それは名人上手のお話しで、ぬえのような未熟者には窺う術もない世界ではありますが。。