昨日、師匠より『砧』の稽古を受けました。いろいろ ぬえなりの工夫はしてあったのですが、まあ、大きなダメ出しはありませんでひと安心。そうして、興味深いアドバイスをたくさん頂戴致しました。
それらを一々説明したくはあるのですが、なんというか、技術的な説明を加えると、それはあまりに些末なものになってしまって。。ぬえの工夫も型を変える、とかあからさまに目に見える大きな変化ではなくて、面を曇らせる角度やら、手を上げたり、右へ回り込むタイミングとか、そんな細々とした工夫に終始してゆきました。ああ~稽古をしているとどんどん細部に入り込んでしまって、段々 オタクっぽくなってくる~
。。が、これが本来的に能が目指すベクトルなのでしょう。もともと切能のような激しい曲の方が ぬえは好きでして。。それが今回の『砧』では身体をあまり使えないことに少々困惑しましたし、また逆説的ですが、場面の中では型が忙しいのに、動くわけにもいかない、というジレンマにも苛立ってもいたのですが。。しかし、昨日の師匠の稽古までに、ようやく動き方も、また動かないことの面白さも、やっと判ってきたような気がします。動くにせよ動かないにせよ、舞台でお客さまに「どのようにお見せするか」を組み立ててゆくという作業は同じなわけで、これを突き詰めていったとき、『砧』は身体の些細な部分にまで神経を行き届かせる必要があって、その緊張感が、身体を使う能とは別の魅力となる。。といった感じでしょうか。ん~、言うなれば身体ではなくて意識で舞う、『砧』はそんな能だと思います。
さて舞台に戻って、「砧之段」の終わりに「いづれ砧の音やらん」とシテが扇を置いてじっと聞き入ると、ツレは立ち上がって舞台の中央あたりに行き、伝言を聞いた体でシテに向き直って着座し、謡います。
ツレ「いかに申し候。都より人の参りて候が。この年の暮にも御下りあるまじきにて候。
シテ「怨めしやせめては年の暮をこそ。偽りながらも待ちつるに。さてははやまことに変り果て給ふぞや(と安座して双ジオリ)。
地謡「思はじと思ふ心も弱るかな(とツレは立ち上がりシテの後ろで支え)。
地謡「声も枯れ野の虫の音の。乱るゝ草の花心。風狂じたる心地して。病の床に伏し沈み。遂に空しくなりにけり。遂に空しくなりにけり(と静かに幕へ引く)
無言で立ち上がり。。うなだれたままで幕に退場することによって妻の「死」を暗示する。。見事な演出です。ただ、演者にとってはこの場面で立ち上がるところが『砧』の中で最も足の筋肉を使うところで。。それに国立能楽堂のあの長い橋掛リを、うまく幕に入ることができるのか。。?
それにしても。。どうなんでしょう? この妻の論理。「この年の暮にも御下りあるまじき」という夫からの伝言が、「さてははやまことに変り果て給ふぞや」と聞こえてしまうのは、あまりに飛躍に過ぎるようにも思いますが。。とはいえ、前述のように ぬえにはこの妻はすでに夫の不実についての肥大化した疑念の虜になっているのだと感じますし、それからすれば自然に導き出された確信だったのかもしれません。
もうひとつ、うがって考えれば、この場面はこれまで本文で明らかにされてこなかった夫の不実が、現実のものであったのではないか? と、お客さまに印象づける作者の「仕掛け」なのではないか、という読み方もできるでしょう。『砧』は取りも直さず夫の不実を恨んで命を失った妻が夫に迫る物語なのであって、夫の不実が妻の幻想に過ぎないのであれば、後シテの妻の亡霊は一方的な「誤解」によって現れる事になって甚だしく存在の意義が薄くなります。それに、後場で初めて舞台上で顔を合わせる夫も、自分を責めて迫る妻に対して弁明をしていない事からも、夫は不実を行い、それがもたらしたあまりにも重い結果に後悔して、懺悔のために妻の弔いをしているのだ、と考える事ができます。
。。このあたり、夫の不実があったかどうかを、作者はわざと ぼかして明示していないのではないかと ぬえは考えています。なぜなら不実の事実の有無は妻にとって生死を左右する問題でしたが、能『砧』は、事実そのものよりも、むしろその有無を疑う「妻の心」の物語だからです。夫からの伝言を伝えない(ように見える)侍女・夕霧。妻の思いに添うように いそいそと砧を拵える夕霧。しかし「砧之段」では妻の心を弄ぶような発言をする(という解釈も許す)。こうなってくると、お客さまも妻と一緒になって、夕霧を疑い始めます。そうしてこの場面ではついにその疑念が最高潮を迎えます。都からの伝言は本当に到着したのか? 妻の絶望にとどめを刺す夕霧の陰謀ではないのか? 。。いや、それよりも能の冒頭に現れたワキが言う「余りに古里の事心もとなく。。」という言葉は真実であったのか。。?
「誤解」で死んでしまったのでは妻はあまりに滑稽ではありますが、真実がわからない事から来る恐怖は、いま目の前に繰り広げられる悪事を直視するよりも数倍恐ろしいものでありましょう。こういう不安感を舞台に横溢させることが作者の狙いなのではないか、と ぬえは考えています。
それらを一々説明したくはあるのですが、なんというか、技術的な説明を加えると、それはあまりに些末なものになってしまって。。ぬえの工夫も型を変える、とかあからさまに目に見える大きな変化ではなくて、面を曇らせる角度やら、手を上げたり、右へ回り込むタイミングとか、そんな細々とした工夫に終始してゆきました。ああ~稽古をしているとどんどん細部に入り込んでしまって、段々 オタクっぽくなってくる~
。。が、これが本来的に能が目指すベクトルなのでしょう。もともと切能のような激しい曲の方が ぬえは好きでして。。それが今回の『砧』では身体をあまり使えないことに少々困惑しましたし、また逆説的ですが、場面の中では型が忙しいのに、動くわけにもいかない、というジレンマにも苛立ってもいたのですが。。しかし、昨日の師匠の稽古までに、ようやく動き方も、また動かないことの面白さも、やっと判ってきたような気がします。動くにせよ動かないにせよ、舞台でお客さまに「どのようにお見せするか」を組み立ててゆくという作業は同じなわけで、これを突き詰めていったとき、『砧』は身体の些細な部分にまで神経を行き届かせる必要があって、その緊張感が、身体を使う能とは別の魅力となる。。といった感じでしょうか。ん~、言うなれば身体ではなくて意識で舞う、『砧』はそんな能だと思います。
さて舞台に戻って、「砧之段」の終わりに「いづれ砧の音やらん」とシテが扇を置いてじっと聞き入ると、ツレは立ち上がって舞台の中央あたりに行き、伝言を聞いた体でシテに向き直って着座し、謡います。
ツレ「いかに申し候。都より人の参りて候が。この年の暮にも御下りあるまじきにて候。
シテ「怨めしやせめては年の暮をこそ。偽りながらも待ちつるに。さてははやまことに変り果て給ふぞや(と安座して双ジオリ)。
地謡「思はじと思ふ心も弱るかな(とツレは立ち上がりシテの後ろで支え)。
地謡「声も枯れ野の虫の音の。乱るゝ草の花心。風狂じたる心地して。病の床に伏し沈み。遂に空しくなりにけり。遂に空しくなりにけり(と静かに幕へ引く)
無言で立ち上がり。。うなだれたままで幕に退場することによって妻の「死」を暗示する。。見事な演出です。ただ、演者にとってはこの場面で立ち上がるところが『砧』の中で最も足の筋肉を使うところで。。それに国立能楽堂のあの長い橋掛リを、うまく幕に入ることができるのか。。?
それにしても。。どうなんでしょう? この妻の論理。「この年の暮にも御下りあるまじき」という夫からの伝言が、「さてははやまことに変り果て給ふぞや」と聞こえてしまうのは、あまりに飛躍に過ぎるようにも思いますが。。とはいえ、前述のように ぬえにはこの妻はすでに夫の不実についての肥大化した疑念の虜になっているのだと感じますし、それからすれば自然に導き出された確信だったのかもしれません。
もうひとつ、うがって考えれば、この場面はこれまで本文で明らかにされてこなかった夫の不実が、現実のものであったのではないか? と、お客さまに印象づける作者の「仕掛け」なのではないか、という読み方もできるでしょう。『砧』は取りも直さず夫の不実を恨んで命を失った妻が夫に迫る物語なのであって、夫の不実が妻の幻想に過ぎないのであれば、後シテの妻の亡霊は一方的な「誤解」によって現れる事になって甚だしく存在の意義が薄くなります。それに、後場で初めて舞台上で顔を合わせる夫も、自分を責めて迫る妻に対して弁明をしていない事からも、夫は不実を行い、それがもたらしたあまりにも重い結果に後悔して、懺悔のために妻の弔いをしているのだ、と考える事ができます。
。。このあたり、夫の不実があったかどうかを、作者はわざと ぼかして明示していないのではないかと ぬえは考えています。なぜなら不実の事実の有無は妻にとって生死を左右する問題でしたが、能『砧』は、事実そのものよりも、むしろその有無を疑う「妻の心」の物語だからです。夫からの伝言を伝えない(ように見える)侍女・夕霧。妻の思いに添うように いそいそと砧を拵える夕霧。しかし「砧之段」では妻の心を弄ぶような発言をする(という解釈も許す)。こうなってくると、お客さまも妻と一緒になって、夕霧を疑い始めます。そうしてこの場面ではついにその疑念が最高潮を迎えます。都からの伝言は本当に到着したのか? 妻の絶望にとどめを刺す夕霧の陰謀ではないのか? 。。いや、それよりも能の冒頭に現れたワキが言う「余りに古里の事心もとなく。。」という言葉は真実であったのか。。?
「誤解」で死んでしまったのでは妻はあまりに滑稽ではありますが、真実がわからない事から来る恐怖は、いま目の前に繰り広げられる悪事を直視するよりも数倍恐ろしいものでありましょう。こういう不安感を舞台に横溢させることが作者の狙いなのではないか、と ぬえは考えています。