ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

『砧』~夕霧とは何者か(その12)

2013-04-11 02:08:09 | 能楽
それにしても「砧之段」。。この終末部はあまりに美しく、そして淋しい情景描写ですね。
謡い方にも技巧が凝らされている部分で、実際の謡い方を試みにフォントで再現してみるとこんな感じでしょうか。

月の色。風の、気色。。影に置く霜までも、心凄きをりふしに。砧の。。音。。夜嵐、悲みの声。。虫の音。交りて落つる。。露。。涙。。ほろほろ。。はらはら、はら。。と。。いづれ砧の音やらん。。

「ほろほろ、はらはらはらと」と、砧の作物に再び向かい合ったシテとツレは、交互に扇で作物に巻き付けられた衣を擣ちます。「砧之段」の中で唯一、といってもよいリアルな型です。が、この場面の処理を間違えると、『砧』の能そのものが破綻する大きな傷になってしまうのですよね~。

すなわち、シテとツレは交互に、決められたところで扇を振り下ろして作物を打つのですが、ややもすれば二人で「バタバタバタッ」と、うるさい音を立ててしまうんです。「砧の。。音。。夜嵐、悲みの声。。虫の音。交りて落つる。。露。。涙。。」。。のあとですから、これではお客さまにとっては たまったものではないですよね。しかもシテとツレはともに脇座に置かれた作物に対面して着座して打つわけですから、脇正面のお席のお客さまにとってはシテの背中しか見えないことになります。その背中越しに「バタバタバタッ」。。

いま ぬえは、ツレ役の後輩のKくんとの打ち合わせで、「作物に触れるか、触れないか、という感じで軽く、静かに」打つよう言ってはあるのですが、そもそもシテである ぬえさえ上手く打てるかどうか。なんせ面の眼の孔からは、まず自分が打っている手元は見えないはずですから。。

もうひとつ、この砧を擣つという、台本に即した型がなぜ違和感をもたらすかというと、それはこの場面が観念の世界から現実の世界に舞台が引き戻される瞬間であるからでしょうね。それまで舞台を動き回っていたシテも、じつはそれは静止したままの彼女の「思い」の投影なのであって、砧に向かいながら遠い夫を思う、その心の動きが立体的に表現されたものなのです。お客さまは地謡が謡う文句の補助を受けて、揺れ動く彼女の心に波長を合わせて、同情したり、共感したりすることができます。ところが砧を実際に擣つ場面は、擣つ、というその行為だけを表現するのです。これが、それまで観念の世界にあったお客さまを現実の世界に引き戻すことになって、ちょっとした違和感を生じさせるのだと思います。とすれば役者はいかにスムーズに観念から現実への移行を果たせるかが、この擣ち方ひとつで決まることに。。

こうなると、シテとツレは無遠慮に、無神経に作物を打つ事は許されないわけで、視野が限られた中でいかに繊細に作物を打てるかが課題なのですね。舞台の片隅で、しかも脇正面のお客さまには背を向けたままで作物を打つこの場面、難しいと思います。

この危険性を排除する目的から、でしょう、最近は作物を脇座ではなく正先に据えて、ツレは一切作物には交渉せず、シテ一人で作物と対峙し、一人で作物を打つ演出が行われることが多くあります。この演出の利点は、ひとつには正面からも脇正面からもシテが作物を打つ所作が見えることと、そうして何より、衣を擣つシテの表情が正面からよく見えることで、シテの心情に同調するお客さまの視点が失われることがなくなることでしょう。もっともこの型は最近になって始められたもので、今回『砧』を初演する ぬえは本来の型。。脇座にてツレと一緒に砧を擣つ型で勤めます。