ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

『砧』~夕霧とは何者か(その19)

2013-04-20 00:05:15 | 能楽
そうこうしているうちに明日が上演当日になりました。今朝の『砧』の稽古でもほぼ順調に行ったので、大過なく勤めることはできると思うのですが。。今夜は伊豆の子ども能の鎌倉公演のために前夜から鎌倉周辺に宿泊しています。なんとも忙しいスケジュールですが、前泊することで「橘香会」にも疲れを残さないで挑めるのではないかと。

さて今回も『砧』について解説してきたわけですが、珍しく今回は精緻に読み進めていくうちに『砧』の読み方が大きく変わってきました。

ぬえは当初、夫は妻に隠れて都で不実を働いたのであり、その相手は夕霧であろうと考えていました。そうでなければ妻は誠実な夫を勝手に誤解して、そのあまりに嘆き悲しみ命を失ったことになり、また後シテもまったくの誤解でありながら夫を恨む、という滑稽な物語になってしまうからです。

ところが、後場の言葉をよく読んでみると、妻が恨んでいるのは夫に不実の行為があったかどうかではなく、妻の思いを受け止めてやらずに三年もの間音信不通であった、その愛情の希薄でした。夫に妻への愛情はたしかにありました。それだからこそ妻の急逝を聞いてすぐに帰郷したのであり、懇ろな弔いの様子を見ても夫の妻への愛情は疑うべくもないでしょう。

しかし妻に故郷の留守居を頼んだ夫は、それきり妻の健康を気遣う便りを寄越すでもなく、自分の安否を知らせるでもなく、訴訟という「仕事」に没頭して三年を過ごしてしまいました。この無神経さが、愛情を確かめたいと願う妻に不安を起こさせ、ついに命を失う事件にまで発展してしまったのです。仕事に没頭して家庭を顧みない男。現代でも ありふれた光景。。夫婦の愛情という普遍的な問題が、ここでは生死を分ける悲劇となってしまいました。

さらに良く言われる『砧』の終曲部のシテの成仏の唐突な展開も、前述のように夫の愛情を確かめ得た妻にとっては至極当然の結果であったのでした。言うなれば『砧』のテーマは愛情のすれ違いなのであって、やはり「誤解」がこの曲で提示される重い問題なのだと思います。

それではなぜ『砧』を読む際に夫の不実がこれほどまでに取りざたされ、夫が不倫をし、その相手が夕霧であったように考えられるようになったのか。ぬえの印象では、それはすべて作者が作品に施した巧妙な仕掛けのせいであったのだと思います。

夫の伝言「この年の暮には必ず下る」を伝えていない「かのような」夕霧の態度。夕霧は主君である妻に従順であるように見えながら、どこか慇懃無礼というか、妻に対して挑戦的な様子も感じられます。そうして最も重要なのは、夫と妻の夫婦二人の間の愛憎劇のような『砧』であるのに、そこに登場する第三の人物が存在することです。夕霧は事実上前場で妻の唯一の相手としてシテと対応する重要な役柄であり、しかも彼女は夫が連れて都に上り、音信ひとつなかった三年までの間、夫の世話をしていた女性です。彼女に夫との不実を思うのは自然な発想でありましょう。

しかしながら、それは作者の意図であったのではないか、と ぬえは考えています。何となれば、この第三の登場人物は、侍女ではなく男性の従者であってもおかしくない役柄だから。これに気づいたとき、ようやく『砧』全体に施された仕掛けについて確信を持つようになりました。

いや、もちろん故郷に残された妻が物思うとき、その相手としての登場人物は女性である方がふさわしいから作者によって夕霧という人物が設定されたのでしょう。もしも男性の従者が第三の登場人物だったとしたら、それは侍女であるよりもずっと簡単な、たとえば夫のメッセンジャーのような役割しか与えられないはずだからです。しかし、それでは夫の伝言「この年の暮には必ず下る」は必ず妻に伝えられることになり、『砧』の物語そのものが成立しません。そして、男性の従者が登場するならば、砧は妻ひとりが擣つことになるでしょう。

ここに作者の仕掛けを ぬえは感じますね。本来古典文学の世界で砧を擣つのは物思う女性なのであって、『砧』で物思う妻と同等のような立場でもう一人の女性。。夕霧がシテとともに砧を擣つのは異例でありましょう。シテが一人で砧を擣つのでも能としては成り立つのだし、現にそういう工夫の上演も多い現代を考えるとき、やはり夕霧という人物は異様と思います。

すなわち作者は、夫の不実を象徴するような女性を、『砧』の中の重要な役としてわざわざ登場させたのではないか、と ぬえは考えます。侍女であれば妻に寄り添い、その思いを聞く話し相手にもなり、砧を擣つ手伝いをしても不思議はない。古典文学の中で二人で砧を擣つことは異例であっても、出典の不明な蘇武の妻が高楼に上って砧を擣つ話題を出し、そこに「故郷に留め置きし妻や子」と、二人が砧を擣つ、という前例を提出してしまうことで、お客さまは自然にシテと夕霧がともに砧を擣つことに同意してしまう。。

しかしながら反面、夫と三年間を都に過ごした夕霧の登場は、その間一度の便りも寄越さない夫に対する妻の不安を思うとき、お客さまにとってはこの侍女に疑いの目を向けるのは当然でしょう。

なぜ作者がそこまで、事実かどうかは最後までわからないままに、夫と夕霧が不実を働いたかのようにな印象を与えるように物語を描くのか。

それは、ひとえに『砧』をご覧になるお客さまに、妻とともに不安感を持たせよう、という、作者の意図による演出なのだと思います。お客さまにとって夕霧は、夫の不実の相手としての「共犯者」をそこに見るかのように、シテはそこまで思わないままに、お客さまの目にはそのように映ります。これによって、夫婦の間の愛の物語、という、お客さまには本来立ち入れないはずの領域の問題を、夕霧の登場によって不実の意味を微妙に変換して、お客さまそれぞれが自身の身に置き換えて考えられる「愛情」と「裏切り」のような普遍的な構図に変えて見せたのが作者の意図だと思います。

ここに到ってお客さまは夫の「共犯者」ではないかと夕霧を疑うことによってシテ妻の心に寄り添うことができる。こうして夫婦二人の愛憎の物語にはじめてお客さまも参加することが可能になるのです。

夕霧は何者なのでしょうか。いまの ぬえは善意の第三者なのだと思います。替エの演出に、前シテの中入に夕霧は妻の死を嘆く演出があり、夕霧を善意の人に思う ぬえは、今回はその演出を採りました。そうして夫も妻に対して誠実であったのです。ちょっとした心のすれ違いが生む誤解の物語。それが『砧』なのだと思います。