ぬえの能楽通信blog

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『砧』~夕霧とは何者か(その10)

2013-04-09 02:06:26 | 能楽

さて「砧之段」ですが、この場面は内容の上では前述の通り、ツレ夕霧によって設えられた砧を間に挟んでツレと体面しながら着座したシテ妻が、いざ実際に砧の音をたてるまでのほんの短い時間の中の妻の心理描写の場面です。さきほどの地次第で一時シテとツレは作物を挟んで対面しましたが、その後はシテは立ち上がって舞い、ツレは地謡座の前に戻って着座しています。「砧之段」の終わりに再びシテとツレは作物の前に集合して、対面して扇で砧を擣ちますが、意味としてはシテもツレもずっと着座しているままなのです。

そうして、彼女たちが実際に砧を擣ったのは、舞台上で実際に型として擣たれる10発前後でしかありません。。いや、この擣つ数が能の演出の常套手段として、役者の演技の「象徴」としての意味しか持っておらず、実際には彼女たちは夜通し砧を擣ったのかもしれませんが、想像をたくましくしてみれば「砧之段」の終わりではシテは深い物思いにふけってゆくので、妻が実際に擣ったその数も舞台で実演される程度を大きく越えることはないでしょう。

さて「砧之段」に描かれる文章の内容ですが、かなり難解ですね。試みに現代語訳すればこういう感じになります。

地謡「蘇武が旅寝したのは北の国。私にとって夫の所在は東だから、西から吹く秋風よこの思いを吹き送っておくれと、絶え絶えの砧を擣つことにしよう。夫の故郷のこの軒端の松も心を合わせて残りなく私の思いをこめた風を通しておくれ。この砧の音に添えて夫の住むそちらに吹いておくれ風よ。
 いや、それでもあまり強い松風が吹いてしまうと、私の心が通って夫の夢に私が現れるならば、その夢を破らないでおくれ。破れてしまっては、この衣を着る人がないように、夫は帰らないだろう。しかしもしも夫が帰って来たならば、衣を裁ち直すように、何時までも深い契りでいよう。衣替えといえば夏の薄い衣。それは忌まわしい言葉だ。夫の命は末永くあってほしいが、同じく長い夜の月のもと眠れぬ身であればさあ、衣を擣ち続けよう。
 かの七夕の牽牛と織女のは年に一夜ばかりの逢瀬で、たちまち天の川の波が二人を隔て、逢瀬の浮舟の甲斐もなく二人の袖は濡れるのだろう。川辺に生うる水陰草よ、泡とともに波を打ち寄せて二人を逢わせておくれ。
シテ「七月七日の暁
地謡「それが七夕の二人の後朝の別れであるのに、私はすでに八月九月を過ぎてもまだまだ一人きりの長い夜を送っている。千声萬声の砧の音に乗せてつらさを夫に知らせよう。月の色、風の気色、月影が霜を置いたように見える有様までもすべてがもの凄いこの時に、砧の音、夜の激しい風、悲しみの声、虫の音、それらに交じって落ちる露と私の涙。ほろほろ、はらはらと、どれが砧の音だろうか。。

ふむ。妻と侍女・夕霧がいったい何回砧を擣ったか、などという話よりもずっと大きな問題が、ここにはあります。一見しても、この場面で描かれる内容は「希望」と「迷い」の間に揺れ動く、まことに不安定な心です。そうして。。詩的な文体に隠されてはいますが、「砧之段」の最後では、すでに思考は停止。。破綻しているようです。。

終末部分の「思考の破綻」はともかく、そこに到るまでの部分は、次々と伝言ゲームのように発想が飛躍していきます。しかしそれらは多く反語的といいますか、ひとつの発想が起こり、ところが不都合に思い至って前言を翻し。。の連続であったりします。